歴史の流れを見よう。まず豪族の一角、呂布、袁術が滅ぼされて、その後、完全に北方を支配していた袁紹が、曹操と大決戦して完敗する。そして数斗の血を吐いて病床についてしまう。
最後にもまた血を吐いて死ぬという場面が出てくるから、おそらく結核だった彼は決断力がない男だったらしく、その優柔不断さが致命傷になった。
この曹操と袁紹の明暗を決定的に分けた戦いが官渡の戦いである。
官渡というのは黄河の流域にある。大雑把にいうと、黄河の南に曹操の勢力がある。黄河の北方を袁紹が支配しているという図式になっていて、黄河で両勢力が対決したのが官渡の戦いだった。
勢力的には非常に拮抗しているというか、むしろ袁紹のほうが大きかった。100万と公称されている軍隊をもっていた。曹操のほうも、中原に勢力を広めてからどんどん兵隊の数は増えていったが、100万までは、まだその時点ではいっていなかった。しかし、勢いが違った。
曹操に対して、袁紹は意思決定において完全に遅れ、守りに回ってしまった。このときの戦いのやり方が、いかにも曹操らしい。参謀郭嘉とのコンビで、戦うと見せ、背後から敵の兵糧を焼き打ち、相手の戦意を喪失させる。それから敵軍を急襲し、圧勝した。変幻自在である。
官渡の戦いのときに許收という曹操の幕僚が出てくる。この許收はもと袁紹の参謀である。袁紹のための謀りごとを、袁紹が採用しないために、許收は愛想をつかす。それで、飛び出し曹操側についてしまう。この辺にも2人の人間的な魅力の差が窺われる。
ところでこの許收という人は、曹操の部下になる前に、曹操軍が兵糧をどれぐらいもっているかを探りにきている。
それを曹操がごまかすのだが、最後にとうとう本当のことをいわせてしまう。
この場面は実に高級な、大人の世界の会話術になっている。少し引用してみよう。
「して、殿にはまだ兵糧がどれほど残っておられるか」
「1年はある」
許收は笑って、
「それほどはございますまい」
「半年分だけじゃ」
許收は袖を払って立ち上がるや、つっと外へ立ちいで、
「それがしが誠の心から参上つかまったのに、殿は左様な詐りを申されるのか。それがし考え違いをしておりましたぞ」
曹操後を追って、
「子遠、許せ。実を申せば、兵糧はもはや3ヵ月分しかないのじゃ」
許仮笑って、
「孟徳殿は好雄よと世に聞こえおったが、なるほど左様でござるのう」
曹操も笑って、
「戦いに詐りはつきもの、と申すではないか」
と言い、耳許でささやいた。
「陣中には今月の兵糧しかないのじゃ」
許收声を荒らげて、
「どこまでそれがしを編そうとされるのか。兵糧はもうないではござらぬか」
曹操樗然として、
「なんと。どうしてそれをご存知か」
一方は本心を明かさない。一方は、相手の嘘を見破って本心をいわせようとする。本心をいわせる、隠す、この駆け引きは、セールスや交渉でもとても重要な点だと思う。
ただ、どこまで突っ込めるかどうか、あるかどうか。なかなか二人ともしたたかである。突っ込むほうは、本当に突っ込むだけの材料をもちながら発言し、カマをかけるといった方法も使っている。とぼけるほうも徹底的にとぼけてみせる。
個人が精いっぱい、命を削って生きているそういう時代の物語であるということももちろん関係するし、自己主張しなければ生きられないということもある。
それがある場合には破滅のきっかけになるし、成功のきっかけにもなる。だから、これは一種の賭けである。徹底的に自己主張しないとつぶされる。しかし、それをうまく主張しないと今度は憎まれる。そういう微妙なギリギリの線でみんな生きている。それが『三国志』のすごい迫力を生む。
許收は相当の才物だが、その才能への過信が災いする。自分の献策どおりに曹操が動いて大成功したので勝ち誇ってしまう。「おい、曹操、おれがいなかったらおまえ、この城まで入れなかったんだ」というふうに威張ってしまうわけだ。結局最後は憎まれて殺されてしまう。
しかし、これは曹操がファッショ的な人物で、妬んで殺したのではない。曹操は、ちゃんと聞く耳はもっていた人物である。
だから参謀が育ったし、強力な参謀群を誇っていたのである。
ただ、つけあがる部下、身のほどをわきまえない部下に対しては、非情であった。それはリーダーには必要な資質である。このように曹操は、どんな優秀な部下であれ、その役割、本分を越えてでしゃばる男は決して許さない。
「おれはおまえたち(参謀)の意見は聞く。しかし、決断するのはあくまでもおれである。ということを示すために許牧を殺したと考えられる。曹操は峻烈な法治主義者であり、同時に計算しつくした人間掌握術をもっていた。
我々のサラリーマン社会を見回しても、組織の犠牲者はたくさんいる。目立つことは必要だが、自分の足元はきっちり築いていないと、気がついたら、自分の立っている場所がないなんてこともありえるのである。
つぎに倉亭の戦い。これも黄河での袁紹軍との会戦である。このときに曹操がやったのが「背水の陣」プラス「十方埋伏の計」だ。川を背にして戦うことにする。負けたふりをして、どんどん味方を川岸まで後退させる。
敵がとことんまで追いかけてきたところで、もう後はないんだからといって兵を、そこで頑張らせて反撃させる。これが「背水の陣」。
もう1つの戦術は、「十方埋伏の計」。五×二で、兵を五段階に分けて、左右に伏勢を置く。そうすると、「背水の陣」との相乗効果がすごい。「窮鼠猫を咬む」ようにして頑張って、相手が逃げていくところをつぎつぎと伏兵を出してやっつけていく。実際、これで袁紹の大軍はほとんど完檗につぶされてしまう。
その後、袁紹の3人の子どもが散発的に反抗するが、ほとんどそのときには大勢が決まっている。袁一族を破った後、曹操は遼東半島、烏桓まで遠征して、完全に北方を征伐してから、どっかりと中原に地位を占める。華北を手中に収めるのである。
2.リーダーが方針をもつ
赤壁の戦いでこんなひどい目に遭ったのに、そのドサクサの中でも曹操は荊州南部にもっている城を守るための計略文書を、部下たちに届けている。
これはほとんど諸葛孔明と同じような振る舞いである。諸葛孔明の「危機のときに開いてみろ」を曹操もやっている。このように曹操には、孔明に劣らぬ深謀遠慮がある。曹操というのは、非常に多才な男で、参謀的な才能も十分にある。しかし、もちろん部下も使う。
信長に似ている。部下を手足のように使う。絶対他人が自分をしのいではいけないのだ。機能として部下を使い切って、参謀なら参謀の頭を完全に自分のために使い切る。武将ならその武力を使い切る。自分に背く奴は許さない。そういう感覚の人間であった。そこに彼の判断力のすごさがある。
曹操はなにかをするとき、いつも自分の結論をあらかじめもっている。だから、わからなくて部下に諮るというケースはほとんどなかったと思う。部下の意見を聞くとしたら、自分の考えと照らし合わせるためだった。
照らし合わせて同じになれば成功する確率は高い。そしてもし自分の考えよりもっといいものが出てくれば、「あっ」と驚いて、「そこまではおれも思ってなかった」と、それを素直に評価する。大将でありながら、ただ下が出してくる情報、意見を侍ってるような人物とは大違いである。
会社にはそういう無能なリーダーが実はすごく多い。自分の中に、方針とか、自分はこう考えているという確固とした意見がない。下に頼っているくせに、下から出てくる意見にはケチをつけたがる。こういう上司が本当に多い。そしていい意見、企画は自分の手柄にしてしまう。困ったものだ。
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