三国志を味わうためには当時の中国の時代状況を、ある程度知っておくことが必要である。ここで時代背景など、ある程度基本的な歴史は押さえておこう。
三国志の時代まで、中国は文明の発達からみても、北方が政治の中心地だった。ところが「三国志」の時代に、文化水準が低い、辺境、周辺的イメージだった華中一帯、揚子江を境にして南側、江南の地域が脚光を浴び始める。そういう国の中心そのものが変転する大過渡期だった。
三国時代の後に、晋という国がいったん中国を統一するが、その後、五胡十六国という大動乱時代に入る。五胡十六国というのは、北のほうから異民族が流れで、中国じゅうが漢民族、異民族入り乱れての混乱状態になった時代である。
つまり中国文明の中心地にいた貴族や知識人などが難を避けてドンドン南へ。そして、南の非常に水と緑が豊かで、温順な気候風土の中に今までとは違う端麗な文化が生まれる。そのきざしは、貴族文化に始まり一部庶民文化にも及んだ。文化史では六朝文化と呼ばれる。
文芸では詩人の陶淵明、書家の王義之が現われ、また四六餅侭体という優美な文体が生まれる。宗教では、仏教、道教が興隆の中で、晋という国(もともと魏の国を継いだもの)が、そっくり華北から南に移っていった。これが東晋と呼ばれるもので、以来、にわかに江南地方に文明が開けていく。
このように、三国時代およびそれ以後の時代は、中国における、国家の広がり、あるいは文化の広がりが北から南へと移行する、いわゆる大地殼変動期だったということができる。
さらにもう1つの歴史的背景でいえば、なぜ後漢が滅びて三国時代の混乱になってしまったかというと、皇帝の権力が落ちて、いわゆる側近政治、つまり宦官たちが勝手な政治をやり始めたからである。
この宦官が特に中国ではびこり弊害をもたらしたのは、一般にはこの後漢の時代と、唐の時代といわれている。
唐の時代は、日本でいえば、平安時代の初期。
この頃は宦官がもっとも跳梁賊屋した時代で、その時代に穆宗という皇帝がいたが、つぎの敬宗皇帝と二代続いて宦官に殺されてしまう。それ以後、皇帝は、宦官が選ぶようにさえなった。そのためつぎの文宗という皇帝が宦官を押さえようとしたが失敗してしまう。
その後も三代続けて宦官が皇帝を廃して立て、廃しては立てという混乱が続く。おそらくこの頃が、中国でも一番宦官政治がひどかった時代で、それと並ぶのが「三国志」の背景、後漢の時代である。
後漢の時代もまた、宦官が横暴を極め、政治を鑿断するようなことが起こった。以上が伏線となって起こったのが、『三国志』の始まりを告げる黄巾の乱である。
2.約束された後漢の衰退
1つの偉大なる王朝が終焉を迎え、乱世を招いた。 その王朝の名を漢という。
項羽と劉邦の英雄諄でお馴染みの漢の高祖が成立させた漢王朝は、西暦8年に王もうが建てた新によって一旦終焉を迎える。 しかしのちの光武帝こと劉秀はこの新を倒し、西暦25年に漢王朝を復興することに成功する。 いわゆる「後漢」の成立である。
この新国家は、誕生のときからある問題を抱えていた。劉秀は、政治の中枢に姻戚関係にあった南陽の豪族たちをすえ、諸国の豪族たちの勢力を削ぎ落とすことに努めたのである。のちの三国時代でも国家を混乱させる原因となった外戚による支配体制である。この後漢成立時からの悪習は、長年にわたって国家を蝕んでいくことになる。
後漢の衰退、いや滅亡は西暦88年にわずか10歳で4代和帝が即位したときからすでに始まっていたといえる。これ以後、後漢という王朝は、まともな成人が皇帝に即位することがなくなり、とく幼帝が擁立されるという異常な状況に陥るのである。4代和帝を継いだ5代しょう帝にいたっては、生後百日で即位させられるほどであった。
当然のことながら幼帝が即位した場合、その母となる皇太后の親戚(外戚)が権勢を振るうことになる。そして外戚支配の常として、支配者は政治をわが物にする。和帝の時代の外戚、とう憲もその例に漏れず専横を振るった。
このとう憲に対して、和帝は皇族たちと謀り、身近にいて身の回りの世話をしてくれる去勢奴隷たる宦官たちと結んでクーデターを起こす。その結果、とう憲を排除し外戚支配から脱することに成功するが、今度は宦官たちが政治の実権を握るようになっただけであった。 こうした外戚と宦官の抗争は後漢史のお決まりのパターンと化し、中国の歴代王朝史においても延々と繰り返される。
後漢における外戚支配の最たるものがりょうきという人物によるものである。八代順帝の時代に妹が皇后になることで出世したこの男は、なんと沖帝、質帝、桓帝の4代にわたって外戚として権勢を振るった。その専横ぶりは、8歳で即位した10代質帝にばっこ将軍とののしられたことからも窺いしれる。その質帝の跡を継いだのが、桓帝であるが、この皇帝が宦官の唐衡、単超らとともにクーデターを起こし、りょうきを殺害するまで、りょうきによる外戚支配は続いた。
3.好みの読み方ができる
『三国志』はいろいろな角度から読むことができる。
たとえば、誰でも興味がある面白い観点としては、エンターティメントとしての人間ドラマがあげられよう。英雄・豪傑が出てきて、チャンチャンバラバラ渡り合い、一方、あまたの知恵者が秘術の限りを尽くす。
また仁侠物のようにも読める。たとえば、仁義などは、今日の日本でいえばヤクザの専売特許のようなものだが、もともとは中国のもので、司馬遷の「史記」の中には「侠客列伝」という記述があるくらいだ。
『水滸伝』という、「三国志」に並ぶ長編があるが、これに出てくる108人の豪傑たちも仁義で結ばれている。仁義で結ばれていながら、アウトロー的で、しかも国家に対しては忠誠を尽くす。正義感をもって行動する人間である。
『三国志』の仁侠話の背景にあるのは儒教思想である。仁と義は、儒教の倫理秩序の中でもっとも高い地位に置かれているものだ。この視点から読んでいくと実に味わい深いものがみえてくる。
この時代、儒教思想が中国全土を支配していた。たとえば、前漢の高祖劉邦が秦帝国滅亡後の中国を統一して、前漢という国を作る。これは都が長安にあったため西漢ともいう。この時代が200年ほど続く。その後に王奔が、新王朝を建国する。かれはファナティックな人間で、非常に狂信的な儒教主義者だった。
しかし、現実離れした土地制度、貨幣制度の改革が社会混乱を招き、建国15年でつぶれてしまう。その後、光武帝の後漢の時代へと移っていく。
このように前漢、後漢、200年ずつ計400年続く漢の時代は、儒教がどっしり中国の社会の中に根づいた時期だった。
儒教が400年に渡って続いたことは、中国人の民族精神とか、発想の源に大きな影響を与えるのに十分な長さといえる。400年続いた安定体制は日本ならば徳川時代の300年しかない。それより100年以上も長く続いた体制が崩壊して、群雄割拠し、無秩序になってしまうのだから、まさに木の葉が沈み、石が浮く混沌状況である。この「三国志」の時代は、400年という大変な長さの儒教の体制というくびきがはずれて、社会全体が一回宙ぶらりんになった時代である。
「三国志」の中にはそういう儒教のくびきの強さと、儒教体制の中に出てくる人間たちの生きざまが鮮やかに描かれている。こういう混沌の時代に、ゼロから、あるいはうらぶれた状態から功なり名なりを上げていくためには相当の蛮勇というか、エネルギーとなりえる発想原理が必要である。それを見るのも「三国志」を読む面白さの1つである。人間、生半可な生き方では、こうしたくびきからは逃れることができないのだ。
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