1.孫策は江東の小覇王と呼ばれ人間的魅力があったが甘さで短命を招いた

三国志14における武将の能力値
名前 統率 武力 知力 政治 魅力
孫策 93 92 69 68 91
群盗、大志あるにあらず、これとりことなすのみ
(呉害・孫策伝)
単なる盗賊の群れに過ぎず、大きな野心があるわけではない。抑え込んでおけば、いつでも片付けられる
呉国の基盤を築いた孫策に、江東で地歩を固めるチャンスを与えたのは、長江を南北に挟んで対立を始めた、袁術と劉謡の2人である。

当時、長江北岸は完全に袁術の支配圏にあり、袁術配下の孫策が入り込む余地などまるでなかった。しかし孫策は、劉認討伐を名目に、袁術から千余の兵馬を借りて挙兵した。
父・孫堅以来の古参の勇将、程普・黄蓋・韓当らに加え、親友の周瑜を得た孫策は、軍勢を率いて江東に討って出た。

経緯はこうである。揚州刺史に赴任した劉認は後漢王朝のもと、袁術を抑え込む役目を負っていた。その劉謡は、孫氏一族の墓がある曲阿に拠点を定めると、袁術傘下として丹陽郡にいた呉景と孫貢を追い出したのだった。呉景は孫策の叔父、孫貫は孫策の従兄だった。困ったのは袁術である。北方には睨みをきかす曹操、徐州には劉備呂布がいるため、動きがとれない。

つまり長江を渡って、劉認に攻撃を仕かけられないでいたのだ。そこに孫策が、叔父である呉景らに加勢し、劉議を討伐したいと袁術に申し出たのだった。袁術から独立し、曲阿のある江東の地を拠点にと考えていた孫策にしてみれば、願っても無いチャンスだった。まさか孫策が江東を制覇し得るなどとは思っていない袁術は、自分にとって都合の良い申し出だと、それを認めたのだった。

呉景・孫賞軍と合流した孫策の軍勢は、義勇軍も加えておよそ五、六千人にまで膨れ上がった。曲阿を占拠していた劉謡軍を撃破し、丹陽郡を占領した孫策軍は、勢いを駆って会稽の太守・王朗の討伐を目指そうとする。それに対し、江東の反乱分子である土賊の動きを懸念した呉景が意見する。

「まず、土賊の厳白虎らを滅ぼしてから、会稽を目指すべきではないのか」と。しかし、その忠告に対し、孫策は冒頭の言葉を返したのである。
「群盗、大志あるにあらず、これ禽となすのみ」

つまり、江東の山賊や群盗の類いなどは、拠点を築くに支障があるわけでないので、後からゆっくり始末をつければ良いというのである。そして孫策一行は急ぎ南下し、会稽の王朗を討ち取る。

しかし孫策陣営が江東で版図拡大を始めると、それを脅威に感じた北方勢力の画策もあって、江東の反乱分子が結託し、ついに動き出す。そこで孫策は、もはや無視できなくなった厳白虎ら土賊勢力をも一掃する。
自ら指揮を執った土賊討伐を機に、孫策は呉景・孫貢といった孫一門を完全に哀術配下から引き抜く。そして、先述したように哀術から独立を果たした孫策は、次々と江東各地を攻略して行くのである。



笑語を好くし、性は關達聴受、人を用うるに善し
【冗談が好きで、こだわりなく他人の意見を聞き入れ、人を使うのが上手い
2.これは、呉の孫策の人柄について、三国志の編者・陳寿が述べた言葉である。その人となり、秀でた容姿を称え、「談笑を好み、心が広くて人の意見によく耳を傾け、適材適所に人を用いた。そのため身分に関係なく孫策を知る者は皆、誠心誠意、命を賭けて付き従った」というのである。

江東を制圧した孫策は、若くして「江東の小覇王」と称えられるほどの器量の持ち主だった。天折しながら英雄として歴史的な功績を残す人物というのは、ごく稀である。冒頭の陳寿の言葉に見られる孫策の魅力的な資質が、その功績の所以とも言える。

人材収集の面では曹操も定評があるが、孫策は曹操と比べても引けを取らない。前項で述べた周瑜を筆頭に呂範、張昭、周泰、太史慈、呂蒙といった、たくさんの逸材を身辺において、大きな仕事を成し遂げている。

この非凡な人材収集能力も、「この人のためなら…」と思わせる人間的魅力がなければ、効力を発揮しなかったであろう。人に好かれる性格と飾らない率直さが、トップに立つ人間には不可欠な才覚であり、器量だと言える。
しかし一方で、孫策の人間的な甘さが短命を招いたとの評価もある。

いずれにせよ、孫策から優秀な参謀と江東の地盤、そして優れた人材活用の妙技を受け継いだ弟の孫権が、こののち呉を建国して三国鼎立への道をつくるのである。


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