孫策・孫権に仕えた文武両道の武将と名高い呂蒙は勉強家だった


呉下の阿蒙
(呉害・呂蒙)
【学問や教養を身につけず、いつまで経っても進歩のない人物のこと】
「呉下」とは呉の都のことである。「阿蒙」の「阿」とは、親しみを持って相手を呼ぶさいに付ける愛称だ。
つまり阿蒙は「蒙くん」といったところで、呉の智将といわれた呂蒙その人のことを指す。

孫策、孫権に仕えた文武両道の武将と名高い彼が、なぜこう呼ばれたのか。呂蒙は字を子明といい、汝南郡富破県の出身だ。呉の基盤を築いた孫策配下の武将・鄭当と縁続きであった呂蒙は、子どもの時分に呉に移り住んだ。手の付けられない悪ガキだった呂蒙は、無学だが腕力だけは人並みすぐれていたという。十五、六歳ですでに賊軍討伐に参加し、たちまち戦場で目覚ましい活躍をする。鄭当の死後、その部隊を引き継ぎ、一軍を率いる部将となった。

しかしいくら武術に長け、戦いに強くても、全軍を指揮する司令官となるには無学ではまずい。
呉の君主となった孫権は、武勇一辺倒の呂蒙の実直さを気に入っていたが、優秀な部下を育てる重要さを充分に悟っていただけに、ある時、呂蒙を呼んでこう言う。

「お前も一軍の将となったのだから、学問を身に付ける努力もすることだ」
軍務に忙しく、読書する時間もままならないと言い訳をする呂蒙に対し、孫権はさらに熱心に説く。「なにも学者になれというのではない。指揮官として必要な知識を身に付けよというのだ。忙しいというが、わたしは若い頃から陣中においてたくさん本を読んだし、君主となってからも重要な史書や兵法害を読み、大いに得るところがあった。お前は若いし、頭も良いから、勉強したことはきっと役に立つ。怠るべからず」

主君である孫権の言葉に、呂蒙は一念発起する。それからというもの毎日読書に勤しみ、猛勉強に励む。こうして呂蒙は、智・勇兼備の名将へと変身していく。ある日、孫権の懐刀であった名参謀・周琉の後任となった魯粛が、赴任途中に呂蒙の屯営に立ち寄った。酒を酌み交わして様々語り合ううち、呂蒙の教養の深さに驚いた魯粛が、思わず漏らした言葉が、「呉下の阿蒙に非ず」なのである。

自分を言い負かさんばかりに成長した呂蒙の背を叩きながら、魯粛はこう言う。「ただ勇猛なだけの男と思っていたが、いつの間にやら、えらい博識ぶりではないか。これでは気安く、都にいたころの、あの無学な茅くん扱いはできなくなったわい」
少しも進歩しない人間、いつまでも無学な人物を「呉下の阿蒙」というのは、この故事に由来している。

魯粛の死後、その部隊を引き継いだ呂蒙は蜀の名将・関羽との荊州争奪戦で、先の猛勉強の成果を実証する。
関羽が軍勢の大半を率いて曹操の魏に侵攻して奨城を包囲すると、呂蒙は手薄になった荊州に乗り込む。それまでのように力で敵をねじ伏せるのではなく、巧みな策略で、戦わずして荊州を奪うのである。周知のとおり、このとき関羽は、孫権軍に背後を衝かれて捕えられ、処刑されている。


刮目して相待す
【しっかり目を見張り、注意深く相手を見直さなければならない】
これは、前項で述べた「呉下の阿蒙」という魯粛の感嘆の言葉に対し、呂蒙が笑ってやり返した台詞である。

「士、別れて三日、即ちさらに刮目して相待す」「刮目」とは目をこすることだ。つまり、士たるもの、別れて三日も会わなければ次に相見える時には、よくよく目をこすって見直さなくてはならない。それくらい進歩しているものなのです。という意味だ。もうあの頃の私ではない、侮っていると足元を掬われますよ、といったところだろう。

208年の「赤壁の戦い」において、蜀と同盟を結んだ呉は、南下してくる魏の曹操軍を見事に撃退し、奇跡的大勝利を得たことは、いくども述べてきたが、これに大いなる貢献をしたのが、呉の周瑜と魯粛である。その策略ぶり、博識ぶりで知られる魯粛でさえも舌を巻いてしまうほど、呂蒙は成長いちじるしかったのである。呂蒙を訪れたこの時の魯粛は、蜀の猛将・関羽と戦うべく前線へと赴任する途中であった。

その魯粛に、呂蒙は関羽の性格や戦術の傾向などを細かに分析して関羽攻略作戦の秘策を三つ、示して見せたという。呂蒙は、学を身に付け己を磨くことが君主への忠義だと悟り、戦略なども猛勉強したのだった。

呉下の「蒙君」の言うとおり、人は努力すれば、日々進歩する。三日もすれば、相手はこちらを追い抜き、先を進んでいるかもしれない。そのことに気づかないでいると、手痛いしっぺ返しを食う恐れがあるのだ。
「刮目して相待す」
人や物事を侮らず、常によくよく注意して、見極め直してから結論を出すべきだということを、呂蒙の言葉は教えてくれている。