魯粛と孫権を結び付けたキューピット役の周瑜

去らしむくからず
(呉害・魯粛伝)
才能ある者を他所へ行かせてはならない
これは、呉の名参謀・周瑜が孫権に言った言葉である。

「江東の小覇王」と呼ばれ、江東の地に呉の基盤を築いた孫策。その孫策は、すでに述べたように200年、曹操の膝元から献帝を奪回し、呉に迎え入れる密計を企てるが、暗殺されてしまう。
後を継いだ弟の孫権は、まだ19歳という若さだった。そんな若僧に、果たして江東の地が守れるのか。亡き孫策配下の者たちは皆、不安に駆られていた。早々と鞍替えの動きを見せる者さえいた。

その動揺を鎮めたのが、亡き孫策の大親友であり、かつ非凡な才覚で彼を支えてきた名参謀の周瑜である。周瑜は、孫策配下のベテラン武将たちが孫権の若さを侮らないよう、自ら率先して孫権に礼を尽くすことで、彼らにも礼節を尽くさせた。こうして周瑜は、三代目・孫権を守り立て、あらゆる指導的な役割を担っていく。特に208年、魏の曹操軍が南下してきたさいには、徹底抗戦を唱え、劉備軍と連合して「赤壁の戦い」で曹操の大軍を倒している。
それはさておき、先ほどの「鞍替え」を考えていた一人に、周瑜の友人、魯粛がいた。

魯粛は字を子敬といい、臨准郡の資産家の出だった。彼は困っている人を見ると放ってはおけない性格で、亡父の遺産を惜しまず施してしまうような胆の据わった男だった。

魯粛の剛胆さは、周瑜との出会い方にも伺える。300人ほどの兵を率いた周瑜が、魯粛に食糧援助を求めたことがある。すると二つしかない米倉のうち、一つをそのまま周瑜に与えたという。のちに周瑜と共に江東の地に移住した魯粛は、孫策に仕える決心をするが、これからという時に、運悪く孫策は暗殺されてしまった。折しも他の友人から誘いを受けていた魯粛は、北へ帰ろうかなどと言い出す始末だった。その魯粛を、周瑜はこう言って引き止める。

「今の世の中は、臣下も君主を選ぶ時代。孫権を主君に選べば、必ず報われる」
周瑜の熱意にほだされ、魯粛はかろうじて留まった。
その一方で、周瑜は孫権に対して、魯粛はすぐれた才能の持ち主、これから良き助けとなって、必ず大きな功績を残すはずですと言い、こう付け加えたのである。
「去らしむくからず」
それが、冒頭の言葉なのである。周瑜の執りなしによって魯粛は孫権に仕え、生涯、彼に尽くすことになる。

では、周瑜に押しきられた孫権は、果たして魯粛を気に入ったのだろうか。
初対面の席上、呉の革新路線を演説して聞かせるような魯粛であったので、孫権を補佐する側近連中の中には、魯粛を良く思わない者もいた。特にお目付け役の張昭などは、「魯粛は未熟者ゆえ、相談相手にしないように」などと、孫権に小言を言っている。しかしそれでも孫権は、魯粛が気に入って、最後まで信頼し重用したのである。

魯粛と孫権を結び付けた、いわばキューピット役の周瑜。もしもこの周瑜の推挙の言が無かったなら、『三国志』の歴史は、恐らく大きく変わっていたであろう。


早く大計を定め、衆人の議を用うることなかれ
一刻も早く決断を。衆議の意見を聞き入れてはなりません
孫権に「赤壁の戦い」へ踏み切らせる決心をさせたのは、魯粛のこの発言である。「去らしむくからず」と周瑜が孫権に進言したことによって、魯粛が孫権に仕えるようになったことは、すでに述べたとおりだ。彼は、亡き孫策のあとを継いだ孫権の側近の中では、いわば新参者である。それだけに孫策時代からの重臣たちは、剛胆で遠慮を知らない魯粛が重用されることが面白くなかったようで、自然、彼への風当たりが強くなるという状況だった。

208年、孫権は黄祖の討伐に成功し、いよいよという気運の中、曹操軍が南下を開始する。狙いは今は亡き劉表の荊州と、そこに身を寄せている劉備である。だが、劉備を落とせば、次のターゲットは江東の孫権であることはわかりきっている。曹操の大軍を相手にして敵うはずがないと、孫権陣営は窮地に立たされる。

そのときのことである。魯粛は、劉備と手を組む同盟策を孫権に提唱する。そして、自ら偵察のために使者となって荊州に赴き、劉備と密かに会談して共同戦線を結ぶ。「長阪の戦い」で大敗を喫したばかりの劉備一行にとっても、魯粛が唱える同盟策は、まさに渡りに船だった。ちなみに、このとき魯粛は諸葛亮とも親しく交わったという。

だが、張昭を始め保守的な孫権の側近たちは、曹操軍との対決には猛反対だった。80万とも号する大軍に、皆が皆、恐れをなしていたのである。側近が次々に降伏論を唱える中、魯粛はじっと口を閉じていた。頼みの周瑜は、駐屯先に赴任中で留守である。もはや魯粛の意見に賛同する者はなく、口を開けば、寄ってたかって同盟策を否定されるのは目に見えている。魯粛は必死だった。孫権が席を立って胴に行くと、そこまで追いかけて行き、彼らが論議する降伏論は誤りだと進言したのである。

「私のような名家出身の者なら、降伏しても、あとは何とかなります。ですがあなたは違う。身の置き所がありません。一同の降伏論に惑わされず、一刻も早いご決断を!」
魯粛の言葉に、孫権はようやく目を覚ましたかのように、すぐさま周瑜を呼び戻した。
孫権政権の絶対的存在であった周瑜は、一貫して曹操との対決姿勢をとってきた人物だかこうして208年、「赤壁の戦い」の火蓋が切って落とされたのである。曹操軍の撃退という歴史的大勝利は、魯粛が名実ともに孫権の参謀役と成り得たことの証でもあった。

魯粛が信じて疑わなかった劉備軍との同盟策は、のちに孫権が江東に強大な呉国を築くのに大いに役立つ。
しかし同時に、劉備にも蜀を興すきっかけを与えてしまったことに魯粛は気づいていなかったようである。

人生まれれば死あり。修短は命なり
【人は生まれればいつかは死ぬもの。短い生涯を終えるのも天命です】
人は、例外なく死を迎える。
大きな歴史の流れの中では、人間一人の生涯が長いか短いかは、さしたる問題ではない。

しかし、36歳で逝った呉の名参謀・周瑜の場合は少し違う。彼がもし長生きしていたなら、『三国志』の歴史はかなり違っていたかもしれないのである。
北方征圧という偉業を成しとげたあと、曹操は意気揚々と南下作戦を敢行する。だが「赤壁の戦い」で孫権・劉備の連合軍と斬り結ぶことになり、結果、周瑜率いるわずか3万の軍勢に大敗する。

このとき曹操は、十分の一程度の敵兵力に撃退されたわけだが、その精神的なショックはかなりのものだったに違いない。この敗北によって本拠地・許にまで撤退し、彼はひとまず天下統一の野望をあきらめざるをえなくなる。いっぽう曹操から奪い取った荊州南部の領有権をめぐって新たな対立関係に陥ったのが、孫権と劉備である。

孫権にしてみれば、「赤壁の戦い」を事実上勝利に導いたのは自国の周瑜軍であり、当然、荊州全域を手中に収めたいと考える。しかし、荊州北部で睨みをきかせる曹操軍の対応に追われる間に、きびすを返すように南下した劉備に荊州南部を占拠されてしまった。
やがて軽視できないまでに勢力を増強していく劉備陣営。孫権は、懐柔策によって劉備との関係を保とうとする。
それに対し、手緩いやり方では逆に劉備らに足元を掬われると、孫権を説得し続けていたのが、周瑜であった。

「赤壁の戦い」から2年後のことだった。曹操の勢いが沈静化している今がチャンスと、周瑜は、目障りな劉備を骨抜きにした上で、荊州全土、続いて益州(蜀)、さらには漢中までを一気に攻略しようと画策する。当然、その地を拠点とした北方進攻まで、周瑜の視野には入っていた。これは、諸葛亮が構想し、このあと実際に劉備政権が辿っていく道筋とまさに同じで二の足を踏む孫権をようやく説き伏せ、いよいよ曹操軍との戦闘準備に取りかかろうと駐屯地・江陵に戻る途中、周瑜は病に襲われる。
死の床に就いた周瑜は、孫権あてに遺書をしたためるのだが、冒頭の言葉は、その中の一節である。
「人は生まれればいつかは死ぬもの。短い生涯を終えるのも天命です」

これからという時に、無二の親友だった孫策から託された若い孫権を残して逝くのは、さすがに辛かったのだろう。心残りの胸の内を、周瑜はこう綴っている。
「命を惜しむわけではありませんが、無念なのは、志を実現できず、また将軍の御命令を仰ぐ事もできなくなったことでございます」
遺書を読んだ孫権の、嘆き悲しむ様が、目に見えるようではないか。

遺言に従い、周瑜の遺志は魯粛に引き継がれる。ところが、魯粛は劉備との協調姿勢を保持し続ける余り、念願の蜀攻略を劉備にしてやられるのである。