知識を試そう!三国志の問題集・三国志検定

朝廷で泥沼の権力抗争が繰り広げられているころ、民間では張角を教主とする太平道と呼ばれる新興宗教が、悪政に虐げられた民衆の間に急速に勢力を拡大していた。

問題 次のうち太平道について述べたものとしてふさわしくないものは何か?

①信者の組織を《方》と呼んだ
②現在の道教の直接の祖である
③儀悔のような儀式を行った
④お札や霊水で病を治療した
答え②



漢の東北辺境に位置する幽州、太守劉焉は黄巾軍来るとの報に各地に義兵を募る高札を掲げた。今の北京から南に約50キロの地方都市啄県で、大きな耳に長い腕の堂々たる男が高札を読んで深く溜息をついていた。漢皇室の血を引く劉備、字は玄徳である。

問題 劉備の祖先とされる漢の王族の称号と氏名は?

答え 中山靖王劉勝

中山靖王劉勝は前漢景帝の子で武帝の兄弟。同じく兄弟の長沙定王劉発は光武帝の、魯恭王劉余は劉表・劉焉の祖先である。『演義』第20回で披露される劉備の家系は劉貞・劉雄・劉弘以外はすべてフィクションである。そのため劉備には皇族を冒称したのではないかとの疑惑がつきまとうが、断言するに足る証拠は得られない。皇族の未喬でありながら父を早くに亡くした劉備の生活は苦しく、自ら篇織りをするほどだったが、一族の劉元起の援助により盧植の門下に加わり公孫墳と知り合った。これが後の彼の人生に大きな影響をもたらす。


国家存亡の秋に自らの非力を嘆く劉備を、一人の男が叱吃した。「男一匹、国のために働こうともしないで、溜息をつくとは何事だ」身の丈八尺、ドングリ眼に虎のような鬚の異様な風采の男、張飛、字は翼徳である。正義感に燃える二人はすぐさま打ち解け、酒屋に入って酒をくみかわした。
そこに現れたのが関羽、字は雲長、身の丈九尺、赤ら顔に二尺の篝を蓄えた偉丈夫で、故郷で殺人を犯したため各地を渡り歩いて来たのである。




問題 関羽の出身地は『演義』ではどこか?またその地の名産品は何か?
答え
 河東郡解良県 塩

正史では解県。当時の解は現在の山西省臨掎県の西南10キロあまり。20キロほど南東には、古代より中国内陸部最大の塩の産地であった塩池(解池。塩水の湖)がある。山西は南北交易の中心地であり北方防衛の拠点でもあったため、古代から塩を仲立ちとする商業が栄え、山西商人という呼称も生まれた。経済と同時に文化的にも先進地域であったこの山西の出身であることが、関羽故事・信仰発展の背景となっている。

『演義』に挙げられる十常侍には、史実ではそのメンバーでない人物が含まれているが、そのすべてを選べ
①張譲
②趙忠
③封しょ
④段珪
⑤曹節
⑥侯覧
⑦けんせき
⑧程曠
⑨夏揮
⑩郭勝

答え 3.5.6.7.8
《十常侍》の語は『後漢書』富者列伝の〈是時、(張)讓、(趙)忠及び夏うん、郭勝、孫璋、畢嵐、栗嵩、段珪、高望、張恭、韓がい、宋典ら12人、皆中常侍と為る。(中略)張鉤上書して曰く「窃かに惟うに張角の兵を興し乱を作す所以、万人喜びて之に附く所以は、其の源、皆《十常侍》に由る」〉に由来し、特定の10人の盲官を指した言葉ではなく、権力を壟断した中常侍の位にある宣官たち全般を指す概数である。程曠は史書に見えずおそらく程墳の誤りであると思われるが、曹節・侯覧と同じく桓帝朝を中心に活躍しており、張鉤の上書があった中平元年、当時の人ではない。げん碩は黄巾の乱後に上軍校尉を拝した時点でも小黄門に過ぎず、中常侍ではない。封謂は黄巾との通謀が露見して詠殺された中常侍であり、《十常侍》に含まれないと考えられる。


問題 正史によると、呂布はその武勇から何と称されたか?またその称号はなんという歴史上の人物に起源を持つか?

答え 飛将、李広
『魏書』の本伝に見える。前漢武帝期に活躍した名将李広が、北方遊牧民族のきょう奴から《飛将軍》と称され恐れられたと『史記』に見えるのが起源。呂布は北方防衛の最前線であった五原郡九原、現在の内蒙古自治区包頭市付近の出身であり、きょう奴の血を引くと言われている。おそらく彼は胡人騎兵部隊を直属の私兵として抱えていたがゆえに強く、正史では〈人中の呂布〉と称され、『演義』では最強の武将として描かれたのであろう。

貂蝉は《中国四大美女》に数えられるが、残りの3人はだれか?
西施 王昭君 楊貴妃
殺伐とした戦いの多い『演義』の中で、貂蝉はほとんど唯一と言ってよい艶っぽい存在である。しかし、彼女は実在の人物ではなく、『魏書』呂布伝の、呂布が董卓の侍女と密通していたとの記述が膨らみ生み出されたのである。西施は春秋時代、越の人。呉を滅ぼすため《美人計》の道具に使われた。王昭君は前漢元帝の宮女。画工に賄賂を使わなかったため醜く描かれ、きょう奴のぜんうに与えられた。後に彼女の美しさを知った元帝は、後悔しきりであったという。楊貴妃は唐の玄宗皇帝の寵愛を集めた妃だが、安史の乱の勃発により蜀に避難の途中、兵士に殺された。


曹操は平定した黄巾軍より精鋭を選って配下に加えたが、それを何と称したか?
青州兵
青州を含む山東地方は河北と並んで黄巾の勢力が強かった地域である。この青州黄巾は初め黒山賊との連合をもくろんで黄河を越え渤海郡に侵入するが公孫さんに敗れ、えん州方面に向かったのである。史実では、えん州刺史劉岱が敗死したため陳宮(『演義』第4回のほうしん曹操との逃亡はフィクション)が説得工作を展開、それが奏効して曹操は飽信らに迎えられてえん州牧を領し、寿張県の東で黄巾軍を迎え撃ったのである。

《青州兵》を得たことにより曹操の軍事力は飛躍的に強大化し、袁紹らと対抗し得るまでになった。〈魏武(魏の武帝川曹操)の強きこと、これより始まる〉との清の学者何しゃくの評語は著名であるが、鎮圧の対象を自らに取り込み実力強化の糧にする何事にもとらわれない発想こそが、新興勢力曹操飛躍の原動力となったのである。

問題 史実では、劉備の徐州入りを諌めた人物がいるが、それはだれか?
①陳登②孫乾③陳ぐん④満籠
答え 3
史実では、劉備は陶謙の下に身を寄せると、豫州刺史となり小浦に屯した。小柿は徐州に属するような印象を受けるが、実際は豫州の東端にあたる。当時、豫州は黄巾の残党や土着勢力が入り乱れ、空白地帯となっていたが、劉備は西への勢力伸張を図らず、陶謙が死ぬとび竺らの勧めに従って徐州に拠った。当時幕下に在った陳ぐんは、袁術に近くえん州で暴れまわっている呂布の脅威もあるとして諫めたが聞き入れられず、劉備を去った。はたして事態はそのとおり進み、劉備は悔やんでやまなかったという。確かに、曹操に先んじて豫州を奪い司州・荊州方面へと勢力を伸ばしていれば、劉備が中原に覇をとなえるチャンスがあったかもしれない。陳ぐんは後に曹操に仕え、九品官人法を案出した人物である。

問題 『演義』によると孫策が曹操と不仲になった原因は何か?
①希望の官職をくれなかったから
②張紘を許に引き留めてしまったから
③許貢の叛乱の黒幕だと知ったから
答え1
孫策は三公の一である大司馬(天下の軍事を司る)の地位を求めたが曹操が許さなかったため、恨みに思うようになった。折しも官渡の戦い前夜、曹操の虚をついて許を襲撃、献帝を迎えて天下に号令すべく密かに準備が進められた(正史には異説も見える)。しかし好事魔多し、曹操との通謀が露見したため訣殺された許貢の食客3人が巻狩の最中、孫策を襲った。重傷を負い百日の安静を求められたが、血気盛んな孫策が耐えられようはずがない。袁紹との同盟を結んだ祝宴の場で、人々が太平青領道の教祖・干吉を拝むのを見て孫策は激怒、干吉を斬罪に処したが、それより干吉の亡霊に悩まされる。ついに自らを写した鏡の中にまで干吉の姿を認めて驚きとともに傷が張り裂け、後事を弟の孫権に託して息を引き取った。享年わずかに26歳、孫堅・孫策と二代続いた当主の天逝は、孫民が天下を狙う上で、はかり知れない損失であった。建安五年(200)のことである。

問題 魏の五都をすべて挙げよ
答え 長安・しょう・許昌・ぎょう・洛陽


問題 的盧の馬相とはどんなものであったか?
答え 目の下に涙槽があり、額の一辺に白い点がある『相馬経』という書物には、馬の額の白い斑点が流れて口に入り、歯に達しているものを楡雁、または的盧という。使用人が乗れば客死し、主人が乗れば棄市(街頭処刑)に処せられる凶馬であると記されている。なお、『蜀書』先主伝の注によれば、的盧とは実際には劉備の乗馬の名であった。各種の書物に見えるこの時代の馬の名には、他に呂布の赤兎、曹操の絶影、張飛の玉追または豹月烏などがある。

問題 江東征伐に備えて曹操が造った訓練施設は何か?
①池②模擬ドック③迷路
答え 1
『魏書』武帝紀によれば、建安十三年(208)、烏桓征伐から帰還した曹操は郷に玄武池を造って水軍を調練したが、これは孫権率いる江東水軍との対戦を想定してのことだったと思われる。だが、江東遠征に先立って荊州を併呑したために、曹操水軍の中核は実際にはさいぼうら荊州勢で占められることとなった。当時、荊州の兵力は騎兵5万、歩兵15万、水軍8万で、兵船7千余隻を擁していたという。一方、曹操軍は水陸併せて83万といわれるが、『呉書』周瑜伝の注によれば、後に周瑜はその実勢を、「中原から率いてきた軍勢が15万に、加えて劉表の旧部が7万足らず」と分析している。これによれば曹操軍の約三分の一は、荊州の投降兵によって占められていたことになる。


問題 孫策は臨終に際し、家臣のうちだれとだれに内政と外交を任せるよう遺言したか?
内政…張昭
外交…周瑜
孫権はこの遺言に従い、張昭を幕僚の筆頭に据え、周瑜を大都督に任じて水陸両軍を指揮させた。彼らはいずれも孫策の生前にはその両腕として活躍した人物であり、政策についてはしばしば意見を異にしたが、家臣団としての結束は固かった。曹操や劉備とは違って豪族連合の盟主という色彩の強い江東孫氏が、数々の試練を乗り越えて国を保ち得たのは、彼らの揺るぎない支援があったためである。

問題 孔明に意図を見抜かれた周瑜は次のように嘆息した。()内に入る数字は?
「彼の才能はわしの()倍はあろうか」
答え 10
後に見るように周瑜の策士ぶりも見事なものであり、両者の間に実際に10倍もの差があるとは思えないのだが。こうした発言が災いして、周瑜はしばしば孔明の才を妬む狭量な人物と評されることになる。ともあれこの時を皮切りに、周瑜は三度にわたって孔明殺害を試みるのだが、これがいわゆる周瑜の《三殺》であり、戦後の荊州紛争における孔明の《三気周瑜》(「気」は怒らせるの意)と対照をなしているのである。


問題 周瑜が蔡中・蔡和の投降を偽りと見抜いた根拠はどれか?
①家族を残してきた
②周瑜と視線を合わせなかった
③曹操側に放った間者から報告があった
答え 1
この後で周瑜と黄蓋が演じた壮絶な《苦肉の計》に比べれば、曹操の仕組んだ察中・察和の詐降は、確かに甘いといわねばなるまい。もっとも、黄蓋の詐降そのものは史実だが、《苦肉の計》のくだりは小説家の創作であるようだ。ちなみに、こうした周瑜の一連の対曹操謀略において、魯粛は常に蚊帳の外に置かれ、孔明に謎解きをしてもらって初めて真相を知るという設定になっている。そしてこの《苦肉の計》では、孔明との約束を守って「彼は都督の仕打ちに不満であった」と周瑜を欺き、「今度こそは奴を出し抜いた」と喜ばせるのだった。


問題 赤壁の戦い当時、次の各人の年齢はそれぞれいくつだったか?
①孔明②周瑜③曹操④孫権⑤ほう統⑥魯粛
①28歳②34歳③54歳④29歳⑤30歳⑥37歳


問題 中国のことわざ《劉備が荊州を借りる》の意味は?
答え ふみたおし
中国独特のしゃれ言葉の一種で、後には「借りたら返さない」がつづく。実際には、呉が荊州の領有を主張する根拠はなく、後には正式に湘水を境に東西に分かつ合意も成立しているから、荊州を貸したというのは、清代の歴史学者趙翼が言うように、領有の正当性を主張するために呉人が後にでっちあげたデタラメなのだろう。とは言うものの、やはり劉備の行動にはどこか火事場泥棒的雰囲気がある。



問題 周瑜の葬儀が営まれたのはどこか?
答え紫桑
柴桑は現在の江西省九江市付近。長江中流の要衝である。『演義』では一貫して周瑜水軍の根拠地として扱われている。

問題 劉璋の部下でありながら、張松とともに劉備の蜀入りを画策した2人とは?

答え 法正・孟達
法正・孟達ともに扶風の人。名士であったが、蜀ではよそ者ゆえに重用されず、不満を抱いていた。この三人の画策により劉備を招き入れた劉璋は国を失う。そのため弐臣の汚名は免れ得ず、成都武侯祠に彼らの塑像は無い。


問題 司馬仲達の西川(蜀)攻撃の進言を、曹操は何と言って退けた?また、その言葉は歴史上のだれの言葉を踏まえたものか?
「すでにろうを得たのに、この上、蜀まで望もうか」光武帝(劉秀)

『後漢書』岑ぼう伝に見える後漢の開祖光武帝の言葉〈既にろうを平らぐるに、また蜀を望む〉に基づいたもの。一般に「ろうを得て蜀を望む」の形で、欲望のはてしないことの比喩に用いる。自分は欲張りじゃあないとうそぶいて西川進攻を退けたこの一言により、蜀占領のチャンスはついえ去り、劉備の逆襲に漢中を失い、三国鼎立が確定するのである。慢心したか、判断力が衰えたか、老いたのか、このころから曹操の不調が目立ち始める。


問題 左慈が峨眉山で得たという書物の名は?
①『遁甲天書』②『太平青領書』③『青嚢書』④『太平要術』
答え 1

問題 曹操の死のきっかけは何の崇りか?
答え 梨の木
曹操は新宮殿の棟梁に使うため、躍龍潭という淵辺にたつ躍龍祠の傍らの梨の巨木に目をつけた。しかし、何百年も経て神が宿ったというこの木には、鋸も斧も歯が立たず、怒った曹操、剣を抜き放つや梨の木に切りつけた。すると、澄んだ音とともに返り血が全身に振りかかってきたため、息を呑んで宮殿に帰った。その夜、梨の木の神に斬りかかられる夢を見てから、頭痛がひどくなったという。

問題 孫権に陸遜を強く推薦したのはだれか?
①張昭②歩驚③顧雍④かん沢⑤諸葛きん
こたえ 4
史実では、陸遜は荊州占領後、蜀呉国境方面の主将となっており、初めから蜀軍迎撃の指揮を取っている。陸遜の表舞台への登場を劇的に演出するために、かん沢の推挙と孫権の台を築いての拝礼が創作されたのだろう。前半戦で陸遜がいては、劉備の仇討ちの邪魔になるという事情も考えられる。

問題 七さん七縦の目的は何であったか?
南蛮人を心服させるため
来るべき北伐に備え、後方を安定させておきたかった孔明は、「用兵の道は……心を戦わすは上策、兵を戦わすは下策」という馬しょくの助言に従い、相手を武力で屈服させるのでなく、心からの帰順を勝ち取ろうとしたのである。
ただし現在では、孔明の南征は一般的に北伐の準備行動として位置付けられている。長期の外征に先立って、後顧の憂いを断っておく必要があったことは無論だが、『蜀書』諸葛亮伝には、南方平定の結果〈軍資出ずる所となり、国以て富饒たり〉とあり、軍需物資の調達もまたその主目的の一つであったことが見て取れる。また、南方の叛乱の背後には、本来、呉の画策があり、対呉外交の修復には、呉の南方支援を封じる目的もあったのだという説もある。

問題 孔明の空城計を見破った魏軍の人物はだれか?
答え 司馬昭
仲達には九人の息子があったが、中でも最も活躍したのは長男の司馬師と次男の司馬昭である。この二人はいずれも兵書に通暁していたが、疑い深い仲達は、孔明の性格を分析した結果、息子の言葉を退けたのだった。換言すれば孔明の《空城計》は、通常は慎重な孔明が、猜疑心の強い仲達を相手に仕掛けたからこそ功を奏した策略といえる。
なお、京劇をはじめとする戯曲の『空城計』には、孔明の弾ずる琴の音に乱れがあるのを司馬昭が聞きつけ、計略を見破るという筋書きのものもある。


問題 孔明のせりふ「馬を射ようとして、誤って狼を射てしまった」の「馬」と「狼」はそれぞれ何を指すか?
〕仲達と張部
「馬」は仲達の姓・司馬を指す。また「狼」は中国語で「張」と発音が同じである。

問題 孔明の延命祈祷の対象は何であったか?
①天帝②北斗③劉備④老子
こたえ 2
中国では古来、北斗は死を司り、南斗は生を司ると考えられており、道教や密教の経典には、北斗に延命を願うという内容のものが少なくない。『演義』第69回にも、早逝を予言された若者が、北斗と南斗の化身に酒食を贈って寿命を延ばしてもらう話が見える。なお、ここで孔明が行ったのは、灯火を己の生命に見立てた《灯占》の類の祈祷だが、魏延は敵軍来襄を伝えに来た際、うっかりこの灯火を踏み消してしまったのである。



問題 孔明が遺言によって葬られた場所はどこか?
①臥龍岡②成都③定軍山④白帝城
こたえ 3
孔明は臨終に際し、特別に墓を築かず、供物も捧げぬよう指示した。また劉禅に宛てた遺言の中で、自身の衣食はすべて官給に仰いでおり、家族を養うための田畑以外、死後に余分な資産を遣すことはないと述べている。連年の出征で国力を疲弊させたにもかかわらず、孔明が蜀漢の人々から恐れかつ愛されたのは、政治の厳正さに加えて、こうした人格的な清廉さも理由のひとつであろう。

問題 孫権の3人の息子、孫登・孫和・孫亮のうち、二代目皇帝となったのはだれか?
こたえ 孫亮
孫権の長男・孫登は呉の赤烏四年に病死し、次に太子となった次男の孫和は父から疎まれて憤死していた。なお、『演義』では触れられていないが、孫亮の立太子までには、実際にはかなりの曲折があった。孫登の死後、孫権は三男の孫和を太子に立てる一方、溺愛する四男の孫覇をも魯王に封じた。呉の朝廷はこれを機に、太子派と魯王派の二つに割れて暗闘を繰り広げたが、両派の抗争は結局、孫和の廃嫡および孫霧の自殺という共倒れの形で終わり、代わってわずか8歳の七男・孫亮が太子に立てられたのである。