黄権が進言するも劉備に聞き入れてもらえず作戦が裏目に出る


累卵の危き
(蜀害・黄権伝)
【卵を積み重ねたように危うい状態】

「赤壁の戦い」に大勝利した孫権が勢いをかって曹操軍の追撃をしている隙に劉備は軍を南に向けて荊州南部に入った。
当時、曹操は北方を、孫権は江南を押さえていたが、西の益州(蜀)には劉璋が割拠していた。

その劉璋は先代から20年にわたって益州を治めていた。しかし劉璋はこの頃、漢中の宗教秘密結社「五斗米道」を率いる張魯と争いを起こし、対立をしていた。そこに曹操が張魯討伐の名目で、漢中に侵攻するという情報が入る。驚惜した劉璋は曹操に使いを出して友好関係を深めようとするのだが、参謀の張松が曹操とは手を切って劉備と手を結ぶべきだと主張する。このとき反対意見を述べたのが総務長官の黄権で、彼はこう劉璋に進言する。

「国には二君を容れず。もし、客、泰山の安きにあらば、主、累卵の危きあらん」
一国に二人の君主は並び立たない。もし、劉備にどっしりと腰を据えられてしまったら、あなたはいつ崩れてしまうか分からない危険にさらされる、と黄権は訴えたのである。劉備などと手を組んだら、危険きわまりないというのだ。

だが劉璋は、張松の主張を聞き入れ、荊州南部の劉備に物資を与えるかわりに援軍の要請する。ところが、これは張松の策略だった。張松は、主の劉璋を儒弱と決めつけて見限っており、劉備に益州(蜀)を渡そうとしていたのである。曹操が漢中に侵攻してくれば、次のターゲットは益州になる。劉璋ではとても守りきれない。それなら今のうちに劉備を益州の長官として迎え入れようという腹づもりだった。

そのため地形、兵器、兵隊、貯蔵物資の状態を密かに劉備に報告していた。そのことが劉備の益州入りのあとに露見し、劉璋は劉備と争うことになるのだが、その戦いは二年に及んだという。その途中、劉備は参謀のほう統を失うが、ついに劉璋が無血開城したため、
益州(蜀)を手に入れるのである。こうして劉備は、天下を三分することに成功する。


進むは易く、退くは難し
進むのは簡単だが、退くのはむずかしい
関羽の弔い合戦のために劉備軍がした遠征は、私怨から出たものである。
私情に駆られて準備態勢が整わないうちの出撃であったため、家臣一同は反対していた。

しかし劉備の心情を察するあまり、真っ向から反対意見を述べる者はいなかった。ただ一人、声を大にして主君を諌めたのが趙雲だった。彼は関羽、張飛、黄忠、馬超とともに「蜀の五将」と称えられる人物である。もとは公孫噴に仕えていたのだが、劉備の徳を慕ってその幕下に入った男だ。

彼は家臣全員の思いを代弁し、こう言う。
「国賊は魏の曹操であって、呉の孫権ではありません。まず、魏を滅ぼすことです。そうすれば呉は向こうから降伏してくるでしょう。魏をおいて先に呉と戦うのは誤りです。

戦というものはいったん始めてしまうと、途中で止めるわけにはいきません。なにとぞ思いとどまってください」と。
正論である。趙雲その人もまた、関羽とは長年ともに戦ってきた盟友であり、悲しみは深かっただろう。しかし、その悲しみに彼の判断が曇らされることはなかったのである。

この正論を吐く趙雲が煙たかったのか、劉備は彼を後詰めの責任者として江州に残し、出陣してしまう。
こうして劉備軍は長江沿いに進撃し、秘帰に到着すると三隊に編成を整える。
将軍の呉班と陳式の二人が率いる水軍は、長江を夷陵まで下り、その両岸に陣を布いた。黄権率いる軍は、そのまま長江北岸を間道を通って夷陵に至り、劉備本隊は秣帰から対岸の南岸に渡って険しい山々を越えて、號亭に到着する。

劉備のこの進軍に、異を唱える人物がいた。長江北岸の山道を軍を率いて下った黄権で「呉軍は勇猛果敢で、一瞬の油断もなりません。わが水軍は長江の流れを下りながら攻めるのですから、まさに『進むは易く、退くは難し』という状況にあります。この黄権が先駆けしますから、あなたは後詰めとなって頂きますように」と、黄権は安全のために劉備本隊は後ろに布陣したほうがいいと進言したのである。
しかし劉備は趙雲の進言同様、黄権のそれも聞き入れず、自ら本隊を率いて前線に討って出る。この作戦が裏目に出たことは歴史の示すとおりである。