「三国志」の故事・格言に関する詳しい解説

「三国志」の故事・格言に関する詳しい解説
白眉はなぜ誉め言葉になるのか?
「三国志」は数ある歴史物語のなかでも、白眉だ

このように、同類のなかでもっとも優れているものを表現するのに、「白眉」という言葉がある。
この言葉そのものも、「三国志」から生まれたものだ。

もとの意味は、字のとおり、「白い眉」。これが、なぜ誉め言葉になるのかというと、蜀で劉備の侍中(いまでいう秘書官)をしていた馬良という男がとても優秀で、彼の眉が白かったからだ。彼は五人兄弟のいちばん上でもあった。五人はみな優秀なことで有名だった。

しかし、「そのなかでも、あえて誰が一番かというと、眉の白い馬良だ」ということで、「白眉」という言葉は、同類のなかでもっとも優れたもの、という意味になったのである。
この馬良は主に蜀の民政面での貢献が大きかったが、夷陵の戦いで戦死してしまった。

泣いて馬しょくを斬る
愛弟子の命よりも優先するものは何つ

馬しょくは、「白眉」の馬良の弟にあたる。馬五兄弟はみな頭もよければ、武力も優れていた。馬しょくもその頭脳明晰ぶりが幼い頃から知られ、諸葛孔明に可愛がられていた。

諸葛孔明は軍略を授け、自分の後継者にしようとまで考えたともいわれる。ところが、彼には唯一の欠点として、自信過剰なところがあった。それが結局、彼の命を奪うことになった。

諸葛孔明の第一次北伐の際のことである。馬しょくは先鋒の大将に抜擢され、街道の守備をまかされた。諸葛孔明の命令は、そこにじっとしていることだったのだが、馬しょくは先走って丘の上に陣取り、攻撃を仕掛けてしまう。ところが、逆襲にあい、従えていた五千の部下のほとんどを失ってしまうばかりか、諸葛孔明の描いた戦略が瓦解してしまい、全体の敗戦につながってしまう。

軍において、命令に違反するのは死罪に値した。まして、それが敗戦の原因となったのであるから、普通なら、当然、打ち首である。だが、馬しょくは諸葛孔明が弟のように可愛がり、また将来を期待していた部下だった。はたして孔明は馬設を死刑にできるのか。皆が孔明の下す処置に注目した。

たしかに、孔明は悩んだ。だが、軍律は何よりも優先しなければならない。そうしなければ、他の者へのしめしがつかない。孔明は泣く思いで馬しょくを死刑に処した。

このことから、愛するもの、信頼していた部下をやむなく処罰することを「泣いて馬しょくを斬る」というようになった。
処罰ではないが、企業のリストラが進むなかで、「泣いて馬しょくを斬る」ような思いで、可愛がっていた部下に整理解雇を通告した人事担当者も多いことだろう。

会社をクビになるのと違い、馬しょくの場合、本当に首を斬られたわけで、「三国志」の世界はいまとは比べものにならないくらい厳しい。



白眼視
どうして冷淡に見ることの意味になったのか

「白眼視する」といえば漢文調だが、日常会話でも、「白い目で見る」という言い方はよく使われる。「冷たい目で見る」、つまり冷淡だったり、軽蔑していることをいう。
どちらにしろ、あまり白い目で見られたくはないものだ。

これも「三国志」の登場人物が、実際に白い目で見た故事に由来する。白い目で見たのは、竹林の七賢のひとり、げん籍。竹林の七賢とは、七人の、いまでいう評論家のこと。彼らは、現実から離れ、理論ばかりを論じることで、現実政治ヘの批判をしていた。

曹操が死んだ後、司馬一族がクーデターで魏の政権を握ると、げん籍はそれに反発した。彼には白眼をむく特技があり、話をしている相手が司馬一族の味方をして何か言うと、白眼をむいて、そのまま応対した。

このことから、白眼視することは、相手に対して冷淡であり軽蔑しているという意味になった。それが転じて、別に白眼をむかなくても、冷淡なことを「白眼視」というようになったのである。

破竹の勢いとはどんな勢いのことをいう?
企業が急成長を遂げたり、あるいはプロ野球やJリーグであるチームが独走し、その勢いが止まらないときなどに、「破竹の勢い」という。

詳しい意味は分からなくても、竹を破るのだから、何となく勢いがありそうなことは、感じられる。しかし、これもまた「三国志」に関係する言葉なのだ。「三国志」時代も末期、魏が滅び晋が建国され、いよいよ統一国家への道を進もうとしていたころの話だ。西暦279年、晋は呉に侵攻しようとしていた。その晋の大将軍、杜預が、攻撃を開始するときに発したのが、「あとは竹を割るようなものだ」という言葉。

竹は固いが、一節割れば、あとは簡単に一直線に割ることができる。そのことから、物事の勢いがすさまじいことを昔から破竹の勢いと言っていたようだ。それをまさに証明したのが、杜預が率いる晋軍だったのだ。

登竜門とはいったいどこにあった門なのかある専門の道に進む際の試験など、そこを通過すれば将来が約束されるものを登竜門という。たとえば、芥川賞は作家への登竜門だし、東大法学部は官僚への登竜門だろう。

しかし、登竜門という門が実際にあったわけではない。黄河上流に、狭い渓谷から大河になる急流があった。魚がこの急流を逆に上っていけば、竜になれるという言い伝えがあるほどの急流で、そのことから、竜門と呼ばれていた。それを登っていくことが、登竜門なのだ。

これがどう「三国志」と関係があるかというと、李ようという後漢の官僚だった人物に認められることが、竜門を登ることにたとえられたからだ。

後漢末期、宮廷は腐敗し、多くの官僚も堕落し私腹を肥やすことに夢中になっていた。そのなかにあって、賄賂を受け取らず個人的蓄財をしない、清廉潔白な官僚たちも、わずかだがいて、彼らは「清流派」と呼ばれた。李ようは、その清流派の代表格で、いまの日本での警視総監のような役職である司隷校尉に就いていた。だが、宦官たちの陰謀で失脚し、その後、処刑されてしまう。

この李ようの知遇を得るのは困難だったので、それがかなった人は、竜門を登るような思いだ、といったのである。


累卵の危うきとはどれほど危険な状態か?
台所でもっとも気をつけなければならない食材は、生卵である。ちょっと目をはなした隙にころがって、割れてしまった経験は誰にもあるだろう。もし、卵を山のように積み重ねたら、どうなるか。ちょっと息を吹きかけただけでも崩れ、それと同時に、すべて割れてしまうだろう。

つまり、累卵とは脆くて危険な状態のたとえである。
「三国志」よりも前の時代からあつた言葉のようで、司馬遷という。「三国志」でこれを使ったのは陳珪という人物だ。
『史記』にも登場する

袁術と呂布は、反曹操との点で利害が一致し、お互いの子ども同士を結婚させるという話が進んでいた。これが実現すれば、同盟はより強固なものとなるので、曹操にとっては、何としても阻止したかった。そこで、陳珪に依頼し、呂布に思いとどまるよう説得してもらった。

陳珪は説得した。「曹操は帝を奉じており、公式に国政を担っている。それに逆らうことは、逆賊になることを意味する。そうなれば、あなたがこれまでに築いてきた名声や権力は、すべて『累卵の危うき』のような状態になってしまう」。
呂布は、なるほどと思い、袁術との間の政略結婚をやめたのである。

三顧の礼
元祖ヘッドハンターの由来とは?

「三顧の礼」といえば、劉備玄徳が諸葛孔明を参謀として招きたいがために、三回も訪れたことで知られる故事。

このことから、現代でも、総理大臣が、著名な経営者や学者などを自ら訪ね、諮問機関のトップに就任してくれるよう説得する場合や、ライバル企業のトップセールスマンをヘツドハンティングするために、社長自らが交渉するようなときに使われる。

この場合は劉備のように、三回も訪れる必要はない。
時々、なかなか承諾してくれない相手と三回会って交渉して、ようやく納得してくれた、という意味で使われるが、これは「三顧の礼」ではない。

「三顧の礼」とは、回数が問題なのではなく、あくまで、身分が上の者が、下の者のところに「出向く」ことをいう。「話があるからちょっときてくれ」と呼び付けて、自分に協力してくれ、と頼んだのでは「三顧の礼」とはいわないのだ。

どんな人間集団でもそうだろうが、もとからいる者たちにとって、あとから参加してくる者の存在は、たとえその人物がどんなに優秀であっても、あまり愉快ではない。

これは、こんにちのサラリーマン社会でも同じだろう。中途採用の人は、有能でも外様扱いされ、なかなか前からいる社員と打ち解けない。そればかりか、その新任の上司の指示に従わない部下も多いだろう。有能な新参者に権威を与えるためには、トップがどれほどその人物を大事に思っているかを部下たちに知らしめる必要がある。そのためにも、有能な人を招聘する場合、三顧の礼を尽くして迎え入れる必要があるのだ。

しかし、めでたく話がまとまった後、雇われた者が「社長が頭を下げたから入ってやったんだ」という気持ちで威張っていると、長続きはしないであろう。


水魚の交わり
誰と誰とのどういう関係?

これは、諸葛孔明との関係を問われた際に、劉備が言った言葉。
劉備があまりにも孔明とばかり一緒にいて、孔明の言うことばかり聞くので、義兄弟の契りを結んだ関羽と張飛としては、おもしろくない。そこで、「俺たちのことを忘れては困る」と劉備に文句を言ったところ、返ってきたのが、この言葉だった。ようやく優れた軍師と出会えた劉備にとって、孔明はなくてはならない存在だった。つまり、「私にとって孔明は、魚と水のように、切っても切れない関係だ」という意味だ。

ここまで言われてしまえば、関羽と張飛としても諦め、孔明との仲を認めるしかなかったのである。
もし、ここで劉備が関羽や張飛にもいい顔をして、「お前らのほうが大事に決まっているじゃないか」などとつくろったとしたら、その場はおさまっても、結局は不満が残り、4人の関係はギクシャクしたであろう。

この話は、本当に信頼できる相手と見込んだ場合は、まわりが何と言おうと重用すべきである、という教訓にもなる。 一人の部下をひいきするなら、徹底的にしたほうがいいわけだ。


危急存亡の秋
なぜ、「秋」と書いて「とき」と読む?

孔明が魏への北伐に出かける際に、皇帝・劉禅にあてて書いた「出師の表」に出てくる言葉に、「今、天下は三分し、益州疲弊せり。これ危急存亡の秋」というものがある。劉備の子でありながら、二代目の哀しさか、ちやほやされて育ったせいか、もともと頭がよくなかったのか、状況認識があまりできない劉禅に対し、孔明は、「いまは国家の一大事、このままでは国が滅びてしま

「秋」という字は、「とき」と読む場合があり、「重大な時」という意味になる。ただの「危急存亡の時」ではなく、「秋」と表現することで、より危機感を募らせていたわけだ。
だが、その孔明の思いを劉禅がはたして理解したかどうか。

「秋」という字のそういう意味を知らない人に向かって、「とき」という意味で使うと、「いまは夏だよ」などと訂正されてしまうから、相手を見て使いたい。


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