下ひの戦い|曹操・劉備軍と裏切り者呂布最後の戦い

下ひの戦い――呂布最後の戦いの結果はどうなった?
198年/○曹操・劉備VS ●呂布

「昨日の敵は今日の友」だったり、「昨日の友は今日の敵」だったりするのが、この時代である。裏切りに次ぐ裏切り。その中心に常にいたのが、呂布だった。これまでにも、義理の親子の縁を結んだ、丁原と童卓の二人を殺している。

その呂布が、イナゴの大群のおかげで休戦となった曹操との戦いの後、徐州の劉備のもとに助けを求めてやってきた。敵(曹操)の敵(呂布)は味方、という言葉もあるが、劉備は呂布を迎え入れ、客将として厚遇することにした。いずれ曹操とは戦う日が来るだろうから、それに備えるためであった。

曹操の謀略により、劉備は袁術と戦うことになる。袁術が徐州を狙っていると思い込んだのだ。劉備軍は出兵したが苦戦していた。すると、その留守の間に、呂布が裏切り、本拠地の下ひを乗っ取ってしまった。「庇を貸して母屋を取られる」とはこのことだった。これが第一段階である。

劉備は呂布との戦いは選ばず、降伏し、その軍門に下った。主客逆転である。
曹操への恨みから、呂布は今度は袁術と同盟を組もうと接近する。劉備はその間に曹操を頼ることにして、向かう。曹操の陣営では、この際、劉備を殺してしまったほうがいいと進言する者がいたが、英雄・豪傑が好きな曹操は、器の大きいところを示し、劉備一行を迎え入れる。

こうして劉備は曹操の客将となり、198年、徐州奪還のため、曹操とともに呂布と戦う。
曹操・劉備軍は、徐州に攻め入ると、勢いに乗って本拠地の下邸まで到達する。呂布は籠城をしいられた。これが、曹操の戦略だった。呂布は豪傑であり、平地での戦いでは自ら先頭に立つので強い。だが、籠城には弱いと見たのだ。

曹操はさらに、堰を切って下郵を水攻めにした。呂布軍もふんばり、3ヵ月は持ちこたえたが、兵士たちの士気は衰えてしまった。
呂布自身の気力も萎えていた。すでに、籠城に入る前に曹操からの使者がきて、「命は取らないから降伏しろ」と勧められたときの迷いをひきずっていたのだ。

そのときは、かつて曹操の側近でクーデターを起こし呂布の参謀になっていた陳官が、曹操の性格からして、呂布は許しても自分は殺すだろうと考え、徹底抗戦を進言し、呂布は悩みながらも、それに従ったという経緯があった。

だが、もはや徹底抗戦派は陳官だけだった。降伏に傾いていた呂軍の他の武将たちが陳宮を捕え、そのまま投降した。呂布は孤立無援となり、降伏以外の道はなかった。

捕えられても、呂布はまだ生きようとした。曹操の前に縛られたまま連れてこられると、呂布は「縄がきつすぎる」と文句を言った。曹操は「虎を縛るのだから、きつくて当然だ」と応じた。呂布は、しめた、と思ってこう言った。

「あなたの恐れる私がこうやって捕らわれの身となったわけだから、もはや天下に憂えるものはないはず。私に騎兵をお預けになれば、あなたのために天下平定してみせよう」 曹操は、 一瞬、「そうしようか」と思った。

これまでにも昨日までの敵を許し味方にしてきたことが何度もあった。だが、隣にいた劉備が言った。「呂布が丁原や童卓と親子の縁を結びながらも、どのような行動に出たかをお忘れになったのか」そうだった。曹操は冷静になり、呂布の処刑を決めた‥刑場に連れて行かれる呂布は「劉備こそ、油断も隙もない男だ」と叫んだ。

「下ひの戦い」は、「三国志」前半の最重要人物、呂布の最後の戦いだった。戦略上は、籠城に追い込み、また地形を利用して水攻めにした点が語られる戦いだが、それ以上に「三国志」の中での位置付けは大きい。裏切りに次ぐ裏切りの人生を送り、三度の親殺しという悪名を着せられた稀代の悪人、呂布の最期だからだ。

呂布がここで勝っていれば、あるいは、もっと早く降伏し、処刑されなければ、また別の評価が下されていたことだろう。

裏切り続けているのは、呂布だけではなく、劉備もなかなかのものだし、曹操も同じだった。「勝てば官軍」という言葉があるように、歴史は常に勝利者の視点から描かれる。そんなことを考えさせられる、呂布の最期の場面である。


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