王佐の才を持つ筍彧は袁紹を見限って曹操の元へ行くと流れが一変

士卒衆しといえども、その実は用い難し (魏害・筍彧伝)
兵士の数は多いが、実際には使いこなせていない
中国では「鳥は木を選んで棲み、兵は主を選んで仕える」という。能無しの主に仕えるくらい悲惨なことはない。特に袁紹に仕えた者たちの末路は哀れであった。冒頭の言葉は、その袁紹について述べたものだ。

袁紹は家柄も良く、見た目も堂々としていたため労せずして周囲に人材が集まった。しかし宝の持ち腐れとはよくいったもので、肝心の「人を使う術」に長けていなかった。なかでも気の毒だったのは参謀たちだ。

たとえば沮授という人物は、筍或が曹操に進言する以前から、袁紹に「献帝を迎える」を説いている。内容的には筍或と同じで「張り子の虎とはいえ、皇帝を擁する意義は大きい」ということを進言している。いったんは頷きかけた袁紹だが、「皇帝など迎えても良いことはない。逆にいちいち裁可を仰がなくてはならず、却って面倒だ」という反対勢力の意見に賛成してしまう。

先の事より現在の動きやすさを取ったわけだが、あまりに浅はかで深盧遠謀に欠ける。結局、献帝は曹操に取られ、袁紹は地団駄を踏む。しかし泣きたいのは自分の進言を「面倒」の一言で退けられた沮授のほうであっただろう。

また田豊も主人運のない人物だ。曹操が劉備を攻めていた時、「好機到来です。曹操の背後を衝きましょう」と袁紹に進言する。ところが袁紹はこともあろうに「今、ウチの赤ん坊が病気なんだ」と言って出陣を見送るのである。「この大事にマイホームパパかよ」
田豊は地面を杖で叩いて悔しがったという。

さらに200年の「官渡の戦い」は弱小の曹操軍と最強の袁紹軍の全面対決だった。袁紹は即決戦を望んだが、田豊は軍律が行き届き、変幻自在の曹操軍を侮り難しと見て「相手の疲弊と自滅を待つべし」と持久戦を提案する。だが自信過剰でさっさとカタをつけた
い袁紹は、この時も耳を貸さない。なおも食い下がって「持久戦」を唱える田豊を牢にぶちこんで出陣してしまう。結果は田豊の言葉どおり、神出鬼没の曹操軍に袁紹軍は敗退する。しかも、このときの袁紹の言い草がすごい。「アイツの意見を聞かなかったばっかりに、とんだ笑い者だ」。そして帰還するなり田豊を殺してしまったのである。

こんな頭領についていく部下がいるはずがない。袁紹の気まぐれや優柔不断に泣かされた部下は大勢いる。優秀な人材はどんどん離れた。筍或も早々に袁紹を見限った一人だ。また「官渡の戦い」では、やはり愛想を尽かした許收の寝返りが袁紹を大敗に導いた。
雲霞の大軍も使いこなしてこそ意味がある。肝心の頭領が無能では、単なる烏合の衆にすぎないのである。


王佐の才
帝王をよく補佐し、善導する才能
曹操が「治世の能臣、乱世の姦雄」と評されたことは、すでに述べたとおりだ。平和な世でも戦乱の世でも、リーダーシップをとれる人物ということだ。しかし、いくら有能なリーダーでも実力を発揮するには優秀な参謀が不可欠なのである。
人間とは不思議なもので、リーダーに向いている人がいるかと思うと参謀が天職という人もいる。そこで登場するのが筍或だ。筍或はまさに後者。参謀になるために生まれてきたような人物である。

筍或の才能を見出したのは南陽の何顛だ。何距といえば、梁国の橋玄とともに曹操の才能をいち早く見抜いた人物鑑定家である。その何願が若き萄或を見るなり、
「彼には帝王補佐の才能がある」
と断言したのである。
筍或は、祖父も父も博学を認われた知識人の家柄に生まれている。若い頃は朝廷に仕官したが、のちに袁紹に仕える。しかし「所詮こいつは大業を成し遂げる器ではない」と袁紹を見限って曹操の元に身を投じる。筍或の姿を認めた曹操は「君は我が子房である」と諸手を挙げて迎え入れたという。子房とは、前漢の初代皇帝の名参謀・張良のことだ。

何顯の言葉を聞きつけた人材収集マニアの曹操としては、早くから筍或の才能に目をつけていたのだろう。
曹操の片腕となった筍或は、まさに参謀街道を逼進する。進言はもちろん、戦にあっては策を練り、時には陣中で弱音を吐きそうになる曹操を叱曉激励して勝利を獲得している。
なかでも「献帝を我らが本拠地、許に迎え入れましょう」との進言は出色であった。

その頃、董卓の暴政の後遺症でボロボロになった後漢王朝最後の皇帝・献帝は、荒れ果てた洛陽の都で惨めな生活を送っていた。しかし腐っても鯛、凋落しても皇帝、である。形骸化したとはいえ、後漢王朝はまだ存続していた。ここで献帝を擁する意義は大きい。曹操は彼の進言を聞き入れ、献帝を許に迎え入れる。

これで曹操は、皇帝の後見人として「天下に号令する」立場を手に入れたことになる。以後、曹操に楯突く者は逆臣と見なされるのだ。各地で覇を争っていた群雄たちは地団駄を踏んで悔しがった。参謀・筍或の面目躍如である。

また、筍或は人物を鑑定する目も高かったらしい。曹操は軍事・政治にわたって筍或の意見を聞いているが、人材発掘についても彼に見解を求めている。筍或の鑑定眼はたしかで、彼に推薦された程いくや司馬誌はその後も重用されている。

曹操というと能力第一主義で有名だが、彼の軍に優秀な人材が集結したのも、筍或の貢献があったからだ。
曹操はその後、魏王にまで上りつめる。まさに筍或は「王佐の才」を発揮したのである。


誠にその才あれば、弱といえども必ず強し
本当の才能をもっている者は、たとえ今は弱くとも必ず強くなっていくものだ

有能な臣下たるもの、主人を奮起させるのも大切な仕事のひとつである。前項で述べたように、曹操は献帝を自分の本拠地、許に迎え入れる。先を越された群雄たちはみな悔しがった。

特に曹操最大のライバルである袁紹はおもしろくなかったようだ。袁紹は曹操が献帝を迎える以前に、「献帝を迎える利」を参謀・沮授から進言されている。にもかかわらず袁紹は、「そんなの無駄です」と異を唱えた別の部下の言葉を受け入れてしまったのだ。頭を抱えたがもう遅い。そこで彼は、「許は土地が悪いから都を遷せ」だの「今まで助けてやった恩を忘れたか」だの、何かというと曹操に突っかかる。が、所詮は負け犬の遠吠えである。

当の曹操は天下に号令する地位を掌中にしてホクホク顔だ。しかし各地で反乱や侵略が相次ぎ、出陣に次ぐ出陣で、席を温める暇もない。そこに袁紹はつけ込む。曹操が出陣している留守を狙って、許の襲撃を画策する。

ところが南陽で張繍と対戦しているはずの曹操が、さっさと許に引き上げてきたのである。思いのほか苦戦を強いられたからだ。仰天したのは袁紹である。彼の軍はすでに許に進撃しつつあった。慌てた袁紹は「北平太守の公孫噴を討ちに行く途中である。兵と食糧を貸してくれ」と適当な手紙を曹操に書いて取り繕った。

しかし、そんな小細工はすぐにばれる。一瞬、曹操は青くなり、それから「馬鹿にしやがって」と、怒り心頭に発する。手紙の件を知らない部下たちは「張繍戦の後で気が立っているのだろう」と噂するが、筍或だけは「何かあるな」と曹操に面会する。

はたして曹操は撫然として筍或に手紙を見せた。そのうえ、いつもクールな曹操が、「これを見ろ。文章も内容も無礼じゃないか。征伐してやりたいが、相手が袁紹ではどうにもならない。いったいどうすりやいいんだ」
と心底悔しがる。

たしかに当時の袁紹軍と曹操軍では兵力に雲泥の差があった。むやみに当たっても砕け散るだけだ。わかっているから却って悔しく、悔しいけれども術がない。
柄にもなく曹操は落ち込んだ。

このとき、筍或が述べたのが冒頭の言葉なのである。
「歴史を見ますと、本当に才能のある者は始めは弱くても強くなっております。また才能のない者は強くても必ず滅んでいます」
筍或はさらに、袁紹に較べて曹操は「度量」「計略」「武力」「徳義」が勝っており、献帝まで擁している。袁紹軍など兵が多いだけで大したことはない、と励ました。
これを聞いて曹操は大いに発奮する。

筍或の言葉は理路整然としている。その場限りの慰めではない。このあと、才ある曹操が無能の袁紹を撃破するのは歴史のとおりである。