魯粛と諸葛亮から推薦を受けたほう統とはどんな英傑だったのか

駿足を展ぶ
(蜀害・ホウ統伝)
大役に就けてこそ、優れた才能を思う存分に発揮する
『三国志』の大物、諸葛亮(孔明)が、「臥龍」(いずれ天に駆け昇る龍)と噂されていたという話は有名だが、同時に、「鳳雛」(天を飛翔する鳳凰の雛)と並び称された男がいた。
その男とは、ほう統、字を士元という。彼は諸葛亮同様、北方の戦乱を避け、荊州に身を寄せていた20歳の頃、司馬徽によって見出された知識人である。

「三顧の礼」で迎えた諸葛亮を知るきっかけが、水鏡先生こと司馬徽の、「臥龍か鳳雛、いずれかを得れば、天下を平定することができる」という助言だったことも前項司馬徴は劉備に向かい、諸葛亮と同じレベルで、ほう統を高く評価していたわけだ。

しかし背が高く美丈夫だったという諸葛亮に比べると、ほう統のほうは、いささか風采があがらぬ人物だったらしい。朴調で、のんびり屋の彼には、多少口下手なところがあったのかもしれない。実力を認めてもらうまでに、とにかく時間が掛かる男だった。

仕えてきた周瑜亡きあと、ほう統は、荊州を領有した劉備の配下に入る。ところが劉備が下した評価は、司馬徴のそれとは比べようも無かった。パッとしない彼の風貌からか軽く扱い、小さな県の知事に任命する。しかも、さっぱり政務をとらない様子に、たちまち罷免してしまう。

そこで一肌脱いだのが、江東の覇者・孫権の懐刀として知られる魯粛だった。魯粛は劉備一行に協力的な立場を取っていたし、またほう統の実力をよく知る人物だった。ほう統の噂を耳にすると、魯粛は劉備に書状を書き送る。冒頭の言葉は、その一節である。
「ほう統どのは、県知事程度にしておくにはもったいない人物です。大役に就けてこそ、優れた才能を発揮しましょう」

ほう統の旧友であり、劉備政権きっての参謀・諸葛亮も、魯粛と同じ意見であった。そのため劉備はほう統を見直し、巡察官に据えるのである。
魯粛と諸葛亮の両名から推薦を受けたほう統とは、一体どんな英傑だったのか。

当時、「天下三分」の構図を画策していた劉備らの狙いは、蜀の攻略だった。援軍を装って蜀入りすることにためらいを感じていた劉備を踏み切らせたのが、このほう統だ。しかも蜀の乗っ取りに絡み、様々な策を進言して事実上の軍師として暗躍する。こうして劉備の蜀攻略は達成されるのだが、ほう統本人は、途中、流れ矢に当たり36年の短い人生を閉じるのである。

人は見掛けによらぬと言うが、ほう統も、まさにその口だった。そのほう統の優れた才能は思う存分発揮されたのだろうか。やがて一人で重責を背負う諸葛亮や、のちに蜀が辿る運命を知ると、ほう統の死ほど惜しまれるものはないように思える。




人の国を伐ちて、以て歓を為すは、仁者の兵にあらざるなり
「他国を攻めて喜ぶのは、仁者の戦ではない」
孫権に荊州北部にまで押さえ込まれた曹操軍が、呉軍に攻撃を仕掛けるのは、劉備の要請で蜀(益州)に入った一年後のことである。このとき、孫権は劉備に援軍を申し込む。

さっそく劉備は成都にいる劉璋に使者を送り、こう申し入れる。
「曹操の攻撃で呉が危機に迫られています。呉の孫氏とわたしは密接な間柄であり、荊州の北でわが関羽が曹操軍を阻止しています。わたしが行かなければ益州の国境まで侵攻されるでしょう。いまは漢中の張魯のことは心配いりません。荊州への派兵一万及び所用物資をお貸しください」

劉璋は、その要請に応えるものの、4千の兵と半分の物資を提供するにとどまった。これに劉備は怒る。倉いっぱいの財産をため込んでおきながら、人の功に報いようとしない人々に死力を尽くして戦えと言っても、それは無理だ。せっかく益州のために尽くしてやろうというのに何事であるか、と。

また、内応するはずだった張松が、後難を恐れた兄に密告されて処刑されるという事態が出来する。そのため、乗っ取り計画が発覚する危険もあった。こうして表面上、親密関係にあった劉備と劉璋の仲はにわかに冷えていく。そして、あれほど遼巡していた蜀の乗っ取りを、劉備はようやく決意するのである。

三国志では、劉備の意思決定の時期は明確ではなく、ほう統が「ひそかに精兵を選び、昼夜を問わず兵を進めて、ただちに成都を襲わん」と言上し、「もし考えあぐねて成都に行かなければ事態は行き詰まってしまいます」と訴えて、ようやく決意したとされている。
いずれにしても、自分を怒らせる原因を作ったのは劉璋で、その劉璋攻撃の口実を作る千載一遇のチャンスと思ったことだろう。

劉備は、荊州北部に出兵すると見せかけて、反転して蜀の要衝浩城に攻め込む。緒戦の勝利に舞い上がった劉備は、祝宴を開く。
宴たけなわのころ、劉備がほう統に向かって言う。
「今日の酒は実に愉快であるなあ」と。これに答えたほう統の言葉が、冒頭のものなのである。ほう統としては、「ここは敵地であり、人々の心もまだつかみ切れていないのに、浮かれてばかりでは困ります」と言いたかったようだ。

このほう統、のちに錐城の攻撃中に、敵の流れ矢に当って36歳の人生を閉じるが、劉備はその死をたいへん惜しみ、ほう統の名を口にしては涙を流したという。