諸葛孔明や周瑜の登場!有名な赤壁・長坂の戦い

牌肉の嘆ー流浪の将軍・劉備
曹操が倉亭で衰紹を大破した頃、古城で再会した劉備兄弟は、雲都・劉辞の軍を得て汝南に勢力を張り、許昌雲撃をもくろんでいた。だが、いち早くそれを察知した曹操は、逆に大軍をもって汝南を攻撃。劉備はわずか一千たらずの兵とともにかろうじて漢水まで落ちのびる。進退きわまった劉備は、幕僚の孫乾の勧めにより、同族の荊州牧劉表を頼ることにした。時に建安六年九月。劉表の歓待を受け、新野の城を与えられた劉備は、以後七年間にわたってこの地で雌伏の時を過ごすことになる。
劉表は土着豪族の察瑁・測越らの協力を得て荊州の治安を保つ一方、儒者を保護して経学の発展に努め、多くの士人を膝下に集めた。だが、小心で決断力に欠ける劉表は、しょせん戦国の雄たる器の持ち主ではなく、荊州の軍政は察瑁の手に握られていた。新野に居を構えた劉備は、その戦歴と人望ゆえに、察瑁らの嫌疑の対象となり、肩身の狭い生活を強いられる。しかし、平穏な荊州での生活が、劉備たちに安息をもたらしたことは確かで、建安十二年(207)春には、甘夫人が嫡子・劉禅を出産するという慶事を迎えた。この年、曹操は袁氏の残党を追って北方の烏桓に長駆する。これを好機と見た劉備は、手薄になった許昌を攻めるよう劉表に勧めたが、劉表は首を縦に振らなかった。曹操の参謀郭嘉は、そうした劉表の性格を見抜き、「劉表は口先ばかりの男で、劉備を使う才はない」と遠征続行を進言している。



三顧の礼―諸葛孔明の登場
「隆中に諸葛孔明という賢者あり。伏龍とは、ほかならぬこの孔明でござります」徐庶の残した言葉を手がかりに、劉備たちは隆中臥龍岡にある孔明の草盧を訪ねる。だが、孔明はあいにく不在であった。風雪をついて出掛けた二度目の訪問も、同様に空振りに終わる。それでも劉備はあきらめず、年が改まると、吉日を選んで三度目の訪問に挑戦した。これが世に謂う三顧の礼である。
孔明の才を信じない関羽と張飛は、三度目の訪問に反対するが、劉備の決意は固かった。その甲斐あって、今回はついに孔明を訪ねあてることに成功する。しかし、肝心の孔明は昼寝の最中で、客を庭先に待たせたまま、一向に起きる気配もない。主人の目覚めをひたすら待ち続ける劉備の姿に、気の短い張飛は堪忍袋の緒を切らしてしまった。





天下三分の計―軍師・孔明の戦略
三度にわたる訪問の末、劉備はようやく伏龍・諸葛孔明と対面した。この席上で孔明は劉備の置かれた現況を的確に分析し、その指針として画期的な長期戦略を提示する。これが隆中対、いわゆる天下三分の計である。この提案を転換点として、時代は後漢から三国へと移り変わってゆくのだが、以下、その内容を簡潔に再構成してみよう。
劉備は人望すなわち人の和を得てはいるものの、頼りとすべき地盤がない。一方、北の曹操は天子を擁して諸侯に号令し、いわば天の時を得ている。また東の孫権は江東に地盤を築いてすでに三代を経、こちらは地の利を得たといえる。残る荊州は戦略の要衝、また益州は資源の宝庫だが、いずれもその主を得ていない。そこで劉備はまずこの二州を手中に収め、他の二者と対等の力をつけた上で、孫権と結んで曹操を攻め、天下統一を図るべきだというのである。これは劉備にとって、まさに目を開かれるような奇策であった。



趙雲、単騎幼主を救うー長坂坡の戦い
度重なる敗戦に激怒した曹操は、はん城に入った劉備たちに最後通告を突き付けて降伏を迫るが、むろん劉備が聞き入れるはずもない。曹操軍の総攻撃を前に、劉備一行は住民ともども、対岸の襄陽に逃れようとした。しかし、察瑁・張允らは開門を拒否し、はては城楼から矢を射かけてくる。劉備はやむなく襄陽入りを諦め、劉表の墓に詣でてからさらに南を目指した。
そこへ夜を日に継いで急行してきた曹操軍の精鋭騎馬隊が雲いかかり、たちまち大混戦となった。所は当陽県の東北にある長坂坡。劉備の乱戦の中家族を護衛していた趙雲は、轤鼎新野から甘夫人を救い出し、ついで蕊夫人と阿斗を見出したものの、重傷を負っていた甘夫人は、阿斗を彼に託して路傍の井戸に身を投げてしまう。趙雲は阿斗を鎧の胸に抱き、折りから押し寄せる敵軍の中を、ただ一騎血路を開いて駆け抜けた。ようやく張飛の守る長坂橋まで辿り着き、一目散に劉備の許へ駆けつけて、一部始終を報告し、鎧の胸当てを開けてみると、阿斗はすやすやと眠っていた。


聯呉抗曹―対曹操共同戦線
長坂波の混戦の最中、劉備はからくも張飛に救い出され、長坂橋を越えて逃げのびた。張飛はただ一騎、長坂橋の中央に陣取って曹操の大軍を待ち受ける。橋のたもとの森では、二十余騎の部下たちが馬の尾に木の枝を結び付けて駆け回り、濠々と立った土煙が大軍勢のように見えた。続々と詰め寄せた曹操軍の武将たちは、この光景を見て手出しをしかね、だれ一人近づこうとしない。そこで張飛は大音声に、「われこそは燕人張翼徳なり。だれか勝負する者はおらぬか」二度にわたって名乗りを挙げると曹操の軍勢は動揺しはじめた。そこへすかさずもう一声「戦うのか、逃げるのか。はっきりせい」矛をしごいて大喝するや、曹操の側にいた夏侯傑が肝を潰して落馬する。それを機に曹操も身を翻して逃げ出し、全軍たちまち総崩れとなった。



花を散らす軍師二人―周瑜対孔明
周瑜は孔明の智略に感嘆する一方、「生かしておいてはいずれ江東の禍いになる」と、ひそかに殺意を燃やしていた。
まずは魯粛の案をいれ、兄の諸葛瑳を遣わして江東に仕えるよう説得を試みるが、それが失敗すると聚鉄山にある曹操の兵糧基地を襲うよう依頼し、わざと戦死させようという借刀殺人の計を考えつく。そんな計画など先刻承知の孔明は、一旦快諾した上で「それがしは水・歩・騎・車いずれの戦いも得意。水上戦しかできぬ周瑜殿とは違う」と挑発し、怒った周埼が命令を撤回するように仕向けて難を免れた。敵の水軍都督察瑁・張允を始末しようと考えた周瑜は、巧みに芝居をうって曹操に偽手紙を掴ませ、察瑁らが裏切ったと信じさせた。曹操はこれによって察瑁・張允を処刑してしまうのだが、この偽手紙作戦もまた孔明に見抜かれていた。それを知った周瑜は、今度は正当な方法で孔明を殺そうと、10日の内に10万本の矢を作れと無理難題を持ちかけた上、工房に手を回して材料の調達を滞らせる。だが孔明は自ら三日と日限を切って誓紙を入れ、魯粛に草船20艘を用意させると、濃霧を利用して長江に漕ぎ出し、呉の襲来と錯覚した曹操軍から、まんまと十数万本の矢をせしめてしまう。いわゆる草船借箭である。


長江を挟んだ謀略戦―周瑜対曹操
当時、両軍陣営は長江によって隔てられ、間者の往来も容易ではなかった。対時の初期には周瑜自ら敵軍要塞の偵察に出掛け、あわや捕捉されそうになったこともあるほどだ。
そこで両軍の間では、数少ない往来の機会を利用して、虚々実々の諜報戦が繰り広げられた。その筆頭が、曹操の幕僚・蒋幹の来訪である。蒋幹は周瑜の同窓という立場をたのみ、彼を説得して曹操に降らせようとするが、周瑜は群英会を催して江東の勢いを誇示する一方、察瑁らの裏切りを示す証拠をその鼻先にちらつかせ、偽の手紙を掴ませて曹操陣営に返す。曹操は察瑁らを斬った後、周瑜の計略に気づいたが、すでに後の祭りであった。
周諭の方でも手を拱いていたわけではない。火攻めに必要な詐りの投降者を仕立てるため、老将・黄蓋としめし合わせ、衆人環視の前で彼を棒打ち五十の刑に処するという苦肉の計を演じる。そうしておいて黄蓋は閾沢に書状を託し、曹操に投降を申し出た。いったんは計略と見破った曹操だが、閾沢の口八丁に丸め込まれ、察中・察和の報告もあって、ついこの話を信用してしまう。それでも念のため人を遣って実情を探らせようとするが、ここでふたたび蒋幹を起用したのが致命的だった。

蒋幹はまたもや前回の轍を踏み、今度は周瑜の意を受けたほう統を曹操陣営に案内させられる。曹操に歓待されたほう統は、兵士の船酔いを防ぐという名目で、戦艦の間を鉄鎖でつなぐ連環の計を進言した。曹操は喜んでこれを採用するが、その真の目的とは、実は火をかけられた船が個別に逃走するのを防ぐことであった。



赤壁の戦いー天下分け目の会戦
勝利を確信した曹操は、船上で大宴会を開いて予め成功を祝した。時に建安十三年(208)11月15日。得意の絶頂にあった曹操は、粟を横たえて自作の詩を披露する。一方、攻めの準備が整った江東陣営では、周瑜が致命的なミスを犯したことに気づいていた。北岸の曹軍に火をかけるには東南の風が必要なのに、この季節に吹く風は西北風なのだ。ショックに打ちのめされた周瑜は、心労のあまり病の床についてしまう。
周輸の悩みを見抜いた孔明は、奇門遁甲の法によって東南風を吹かせると請け合い、南屏山に祭壇を築かせて祈祷を始めた。半信半疑だった周瑜も、本当に東南風が吹きはじめたのを見るや、軍勢を配置して進撃の準備を整える。かくして江東の軍勢は、黄蓋の船団を先頭に立てて、水陸両面から赤壁めがけて繰り出した。
さて、「黄蓋来る」との報に、「わが事成れり」と笑った曹操だが、相手の船足が速すぎることから、罠だと気づいた時はすでに遅かった。火だるまになって突っ込んできた黄蓋の船が次々に激突すると、さしもの艦隊もまたたく間に燃え上がり、あたり一面火の海となった。江上には周瑜の率いる江東水軍が殺到し、陸上の陣営には甘寧・呂蒙らが火を放つ。曹操はかろうじて上陸し、烏林から北に逃れたが、頼みにしていた合ぴからの援軍も太史慈・陸遜に遮られ、やむなく西のい陵を目指して落ちのびた。



赤壁の戦いは『演義』最大の見せ場であると同時に、最も謎の多い場面でもある。
まず、赤壁の位置からしてはっきりしない。史実の赤壁は湖北省武漢市の150キロほど上流だが、『演義』で赤壁とほぼ同じ場所として扱われている三江口は、現在の武漢から約百キロ下流の都城付近にあたり、漢陽・葵口・奨山など史実に見えない地名の多くも武漢より下流に位置する。この三江口=赤壁の確立には、北宋の大文学者蘇鰔の影響がうかがえる。彼は黄州(湖北省黄岡)に左遷されていたとき、長江沿岸の名勝・赤鼻磯を赤壁と間違えて(仮託したとの説もある)『赤壁賦』を作ったが、この黄州の対岸にあたるのが都城であり奨口である。『赤壁賦』の〈西望夏口、東望武昌〉の句は『演義』の〈東視柴桑之境、西観夏口之江〉(四十八回)を坊佛とさせるし、曹操が粟を横たえて赤壁に『短歌行』を吟じたというのも、ここに起源するのであろう。
このようなさまざまな材料の蓄積を経て、『演義』の赤壁の戦いは三国期最大の戦いとして描かれているが、戦いそのものの存在を疑問視する中国の学説が紹介されて話題になった。その論拠は、
①赤壁の戦い後に周瑜の地位が上がっていないし加封もされていない
②『後出師表』が曹操の赤壁の敗戦に触れない
③『資治通鑑』は戦いの翌年に蒋幹が周玲説降を試みた記事をのせるが、曹操に軍事的優位が無ければ不可能である
以上の三点である。事実であれば大発見だが、その信瀝性は疑問と言わざるを得ない。赤壁の戦いから江陵攻略までを一連の軍事行動ととらえれば、その後に周瑜はしっかりと加封されている。また『後出師表』『資治通鑑』は一次史料として用いるには問題のある文献である。前者は偽作説が有力で、後者は『呉書』周玲伝の注から取った記事に、司馬光が北宋時代、主観によって年代を充てたものである。いくらセンセーショナルな新説であれ、テキスト・クリティークが疎かでは受け入れられない。
しかし、この戦いで曹操の受けた損害が『演義』に描かれるのに比べ、遥かに軽微であったことは事実のようだ。敗戦後も江陵における曹仁の奮戦、馬超の乱の平定、合ぴ・濡須の戦いなど、魏の軍事行動は些かも鈍ることなく継続された。また、曹操が仮に一気に孫氏を滅ぼす心であったら、南徐州方面からも軍事行動を起こしたはずである。実際の赤壁の戦いは、舞陵の戦いまで足掛け15年にわたる荊州争奪戦の一駒に過ぎず、さほど重要性を持つ戦いではなかった。しかし、数少ない曹操の敗戦はそれだけで劇的であり、赤壁大戦物語は生まれるべくして生まれたのである。