三国志の長い歴史のはじまりは群雄割拠の時代から

歳は甲子に在り、天下大吉ならんー黄巾の乱
朝廷で泥沼の権力抗争が繰り広げられているころ、民間では張角を教主とする太平道と呼ばれる新興宗教が、悪政に虐げられた民衆の間に急速に勢力を拡大していた。悪政や天災の続く時代には大量の流民が生まれる。寄る辺のない彼らの間からは教団に身を投ずるものが数多く生まれ、太平道は10年あまりの間に数十万の信徒を擁する強大な勢力を誇るまでになる。それを背景に張角は〈蒼天已死、黄天当立、歳在甲子、天下大吉〉のスローガンを掲げて、後漢王朝への叛乱を企てた。


桃園の誓いー布衣の英雄たち
漢の東北辺境に位置する幽州、太守劉焉は黄巾軍来るとの報に各地に義兵を募る高札を掲げた。今の北京から南に約50キロの地方都市啄県で、大きな耳に長い腕の堂々たる男が高札を読んで深く溜息をついていた。漢皇室の血を引く劉備、字は玄徳である。国家存亡の秋に自らの非力を嘆く劉備を、一人の男が叱吃した。
「男一匹、国のために働こうともしないで、溜息をつくとは何事だ」身の丈八尺、ドングリ眼に虎のような鬚の異様な風采の男、張飛、字は翼徳である。正義感に燃える二人はすぐさま打ち解け、酒屋に入って酒をくみかわした。
そこに現れたのが関羽、字は雲長、身の丈九尺、赤ら顔に二尺の篝を蓄えた偉丈夫で、故郷で殺人を犯したため各地を渡り歩いて来たのである。劉備は関羽も同心であると知って、自らのテーブルに招き寄せた。たちまち意気投合した豪傑三人は、張飛の家の桃園に宴席をもよおした。ときあたかも春、満開の桃花の下いけにえの黒牛・白馬・紙銭などを用意して、三人は義兄弟の契りを結んだ。「同年同月同日に生まれんことは得じとも、願わくは同年同月同日に死せん」。500余の兵を集め、豪商張世平、蘇双の援助を得た三人は、武器を整え義軍に応募、戦いに明け暮れる人生の第一歩を踏み出した。


濁流の淵―十常侍の乱
黄巾の乱平定に功有った武将たちは、一向に恩賞に与ることができなかった。朝廷は依然として悪徳宦官集団《十常侍》が巣くう腐敗の巷であった。彼らは乱の最中は密かに賊と通謀し、平定後は功を立てた武将たちに金品を要求、応じなかった皇甫嵩・朱僑をも罷免するなど、売位売官・賄賂・庶民からの収奪と悪の限りを尽くしていた。

霊帝が崩御すると、何皇后の皇子弁を即位させることに成功、これが少帝である。以後、何進は宦官打倒に心血を注ぐが、その過程で彼の参謀的役割を果たしたのが若き日の衰紹であり、曹操である。
黄巾の乱以後軍事に注目していた霊帝が中平五年(188)に初めて設置したのが西園八校尉。宦官を筆頭に、衰紹、飽こう、曹操、趙融、ふう芳、夏牟、淳干瓊がそのメンバーである。衰紹・曹操のエリートぶりが窺える。また、けんせきは宦官でありながら身体壮健で武略優れたため霊帝から信任され、大将軍何進をも上回る権力を与えられた。霊帝の死に際しても皇子協を即位させるよう託されたが、何進に阻まれ殺されることとなる。


後漢王朝の破壊者―董卓の乱
董卓はかつて黄巾との戦いで劉備に危機を救われたにもかかわらず、劉備が無位無官であると知るや傲慢にふるまい小入ぶりを見せつけていたが、自らの失策を賄賂で償い西涼の刺史におさまっていた。雄兵20万を擁し密かに天下を窺っていたが、何進の密詔に接すると、これ幸いと洛陽に向かった。董卓は少帝らを守って洛陽に入ると何進兄弟座下の兵をも手に入れ、強大な軍事力を背景に権力を手中に収めた。

董卓はさらに皇帝を廃立し、朝廷を完全に我が物にせんと画策した。朝廷内で唯一彼に対抗した丁原を、その養子である呂布を籠絡することにより討ち取り、反対する官僚を斬り捨て廃立を強行、献帝を立て少帝を毒殺した。ここに董卓の専制体制は確立された。

曹操は董卓を訪ねると、呂布が席を外した隙を狙って董卓に手を下そうとした。しかしその刹那、後ろを向けて横になっていた董卓は鏡に映る曹操の姿に気づいた。曹操は刀を献上に来たとその場を取り繕うや、一目散に洛陽を脱出したが、彼の陰謀を悟った董卓が各地に巡らした網に中牟県でかかってしまう。しかし、その地の県令陳宮は正義の士であり、曹操を解き放つと官を捨て行をともにした。
逃亡の途中、曹操は父の義兄弟の呂伯箸に一夜の宿を求めたが、その夜、豚を屠る相談をしていた家人たちを自らの命を狙ったものと誤って殺してしまい、急ぎ出立した。間もなく買い物から帰った伯著に出会うと、曹操は彼をも斬って捨ててしまった。


中の呂布、馬中の赤兎―氾水関・虎牢関の戦い
曹操は逃避行のすえ故郷の誰に帰り着くと、私財をなげうって義軍をリクルートした。
豪商衛弘の援助を得、一族の曹仁・曹洪・夏侯惇・夏侯淵(曹操の父は夏侯氏から曹氏に養子入りした)さらに李典・楽進といった武将を集め、後の曹操軍団の中核が形成された。
そして偽りの詔を発し、全国の諸侯に反董卓の決起を呼びかけた。
呼びかけに応じて集まったのは17人の諸侯。初平元年春正月、袁紹を盟主に押し立てるや大軍を率いて氾水関に攻め寄せた。
しかし、董卓魔下の西涼軍は強盛であり、猛将華雄の前にたちまち連合軍の鋭気は挫かれた。大敵を前にただただ驚きあわてるばかりの諸侯たちを尻目に流星のごとく登場するのが、劉備・関羽・張飛の桃園三兄弟である。官位にこだわり出陣を渋る袁術・袁紹に、三人の実力を見抜き出陣をとりなしたのは曹操だった。かくて出馬した関羽は盃酒も未だ冷めぬ間に敵将華雄を斬り捨て、連合軍の勢いはふたたび盛り返した。
華雄討ち死にの報に接して虎牢関に進出した呂布に対し、連合軍はふたたび幾多の名将を失い屍の山を築いた。公孫さんがまさに討ち取られようとした刹那、一人の男が大喝一声打ちかかった。これぞ張飛翼徳、呂布を向こうに一歩も怯まず、さらに関羽・劉備の助勢を得てついに勝利を収める。恐怖を感じた董卓は、洛陽を捨てて長安へと逃れた。



曹操軍団、誕生すー曹操の苦闘
連合軍の崩壊後、失意の曹操は揚州に向かったが、やがて東郡の太守となった。初平三年(192)、青州で黄巾賊数十万がふたたび叛乱を起こすと、李催・郭氾の下ひとまず落ち着きを得ていた朝廷は、曹操に討伐を命じた。寿陽で戦端が開かれると、百万対数千という圧倒的に不利な戦況に済北の相飽信が戦死を遂げる。しかし、曹操は見事に軍を引き締め奮戦し、ついに黄巾軍30余万、流民100万人のすべてを降伏させた。
初期の群雄には、州の刺史や牧の地位を利用して地方に勢力を蓄えていた者が多い。
陶謙・劉表・劉璋、さらに衰紹・衰術もふくめたこれら旧勢力出身者は、官の威光により地方を支配したものの、戦乱の時代に対応すべき展望も軍事的センスも持ち得ず、次第に曹・劉・孫ら新勢力の前に屈していくのである。





劉備の苦闘―徐州をめぐる攻防
曹操がえん州に着々と地歩を固めつつあったころ、劉備は徐州を支配していた。彼は督郵を鞭打って棄官した後、張純の叛乱討伐に功を立てて平原の相に収まり、虎牢関の戦いにも参加した。徐州牧陶謙が曹操の進攻を受けたとき、孔融・田かいらとともに救援に赴くが、曹操は呂布にえん州を乗っ取られて急遼軍を返し、徐州はひとまず平穏を取り戻した。
陶謙は齢すでに還暦を越え、才能ある子息にも恵まれていなかったが、劉備を見るやその人品にほれ込み、徐州牧の位を譲ろうと申し出た。しかし、劉備は二度の申し出を頑として拒否、徐州からほど近い小浦に駐屯した。
しかし、ほどなくして陶謙は病の床につき、三度劉備に官印を捧げた。び竺や関羽・張飛らの再三の勧めもあり、劉備も折れて徐州牧の位に就く。
劉備は善政を敷き領民になつかれた。折しも、曹操に敗れた呂布が身を寄せて来た。劉備は周囲の反対を押し切って受け入れるが、張飛の酒の過ちから徐州を乗っ取られ、ふたたび小浦に屯することになる。しかし、張飛が山賊に化けて呂布軍の馬を奪ったため戦いに至り敗戦、せっぱ詰まってついに曹操に身を投ずる。


暗闘―曹操対劉備
呂布を滅ぼしてより曹操の威勢はさらに強まり、楊彪を放逐、趙彦を殺して朝廷生え抜きの勢力を削るなど、専制体制確立へ向け地歩を固めていった。そして自らの威風を示し、朝廷派の様子をうかがうため、許田に巻狩を企画した。献帝に拝謁して左将軍に任ぜられ、皇叔と呼ばれるようになっていた劉備も、巻狩に参加した。
狩の最中、曹操は献帝の弓矢を借りて鹿を射た。鹿に突き立った矢を見て一同が万歳を唱えるところ、曹操は献帝の前に立ちふさがり、自ら歓声を受けた。人々が驚く中、関羽は薙刀に手をかけ曹操に撃ちかからんとした。しかし、劉備はあわててそれを制止した。劉備は嫌疑をかけられるのを恐れ、とうかいのため裏庭で畑仕事を始めていたが、ある日突然曹操に酒宴に招かれた。二人は竜巻を遥かに望みながら盃を交わし、英雄を論じた。英雄は自分とお前だけ、との曹操の言葉を聞いて図星をさされた劉備は、我知らず箸を取り落とす。折しも鳴り響く雷鳴に度を失ったとその場を繕い、二日後、衰術迎撃の名のもと5万の軍勢を借り受けて徐州へ向かった。一戦で衰術を撃破、憤死に追い込むと、とって返して曹操任命の徐州刺史車胄を討ち取り、ふたたび徐州を手中に収めた。しかし、単独では曹操に抗し得ないと見た劉備は、陳登の策に従い河北の衰紹と同盟を結ぶ。

曹操は劉岱・王忠の二人を差し向けたが、関羽・張飛の活躍により二人を難無く打ち破った。曹操は激怒、衰紹に攻撃の意志無しと見るや大軍を徐州へ向けた。劉備は敵陣に夜襲をかけるが、逆に伏兵にあって完膚無きまでにたたきのめされ、家族を顧みるいとまもなく、衰紹を頼って落ちて行った。張飛も戦況不利と見るや芒とう山へ登って、山賊に身をやつした。残された関羽は土の山の上に包囲された。しかし、関羽を配下に加えることを願う曹操は、張遼を降伏勧告の使者として派遣した。


関羽、千里を走るー劉備軍団の再結集
許昌に着いた関羽を籠絡しようと、曹操は数々の贈り物を与えた。美女、金銀の器、綾錦、抱、髻袋……しかし関羽の心は揺るがない。ただ赤兎馬を送られたときだけは、一刻も早く劉備のもとへ駆けつけられると喜んだのだった。
一方、袁紹は公孫さんを滅ぼして河北を統一、強大な勢力を築き上げていたが、先に劉備の救援の依頼を受け入れると、陳琳作の撤文を各地に飛ばし、曹操討伐の師を起こした。四代にわたって三公(最高位の大臣)を出した名門出身の袁紹は、董卓との戦いの後、韓馥から糞州を奪って本拠地を得た。さらに幽州を攻めて、建安四年(199)春、公孫さんを自決に追い込んだ。かくて袁紹は、糞州・青州・幽州・井州にまたがる領土と百万の雄兵を控えて、曹操をも遥かに凌駕する軍閥中最大の勢力を築き上げた。しかし、袁紹陣営では幕僚たちが激しく自己主張して対立しあい、軍の統率も緩かったため、質においては曹操軍におよばなかった。さらに、袁紹も優柔不断かつ自信過剰な性格であり、謀臣を用いることができなかった。これらが、袁紹敗北の要因となる。


官渡の戦いー中原の覇者・曹操
白馬・延津の緒戦に敗れた袁紹だが、曹操を一気に圧しつぶさんと、70余万の兵を率いて官渡に向かった。迎え撃つ曹操軍はわずかに7万、圧倒的不利である。しかも、袁紹軍は豊かな河北平原を背景に兵站も充実している。曹操は短期決戦を目指して袁紹軍に攻撃を仕掛けたが、数的劣勢を覆すことはできず敗退、両軍渠水を挟んで官渡に対陣した。

袁紹の見通しの甘さは死後にまで影響をおよぼした。生前世継ぎを決めなかったことは家中に派閥を作り、遺言で長子を廃して末子をたてたことは対立に火をつけた。また、反対を押し切って三人の息子と婿の高幹に領土を分割統治させたことも、さらに家の分裂を助長した。袁證と袁尚も自分らのおかれている状況をわきまえずに、曹操との対決に互いの足を引っ張り合うありさまだった。これに着目した郭嘉は、外圧を弱めて存分に兄弟争いをさせ、漁夫の利を収める策を献じ、成功を収める。
袁尚が青州を攻撃している留守を攻めた曹操は、その本拠地邦を落とし、袁尚は幽州に逃げた。曹操の長子曹王が、袁煕の美貌の妻頚氏を手に入れたのはこのときのことである。翼州を手に入れるや、曹操はただちに青州に転戦して哀讓を滅ぼし、二手に分かれて幽州と弁州に攻め掛かった。袁煕・袁尚は風を望んで逃亡、塞北の遊牧民烏桓に投じた。
井州の高幹も壺関の戦いに敗れて逃亡の途中殺され、河北はすべて曹操に帰した。
郭嘉は、この機に烏桓を討伐することを主張、曹操は現在の中国東北地方に軍を進め、哀氏兄弟と烏桓の連合軍を撃破した。冬将軍に追い立てられて幽州に帰還した曹操を待っていたのは、風土病で病床にあった郭嘉の死だった。享年三十八歳、曹操は最も信頼を寄せた軍師の早すぎる死に働突した。しかし、郭嘉の遣した策に従いしばらく幽州に留まると、遼東太守公孫康が袁煕・袁尚の首級を捧げて来た。
もはや全中国に曹操に対抗し得る勢力は無くなった。曹操は中華統一を確信し、帰途邦で銅の雀を掘り出すと、贄を尽くした銅雀台の建造を命じたのだった。


江東の虎と小覇王―孫呉政権の成立
孫堅、字は文台、呉郡富春の人である。17歳のとき海賊を討ってより名を知られ、妖賊許昌討伐に功をあげた。黄巾討伐には郷里の若者を集めて参加、さらに長沙の区星を平定して烏程侯に封じられる。董卓討伐に活躍するが、洛陽で伝国の御璽を得て連合軍を離脱、帰途荊州で衰紹の意を受けた劉表と合戦におよんだ。初平三年復讐を期して長江を湖り劉表を攻撃するが、深追いして伏兵の投げた石に当たり最期を遂げる。
長男の孫策は父の遺骸を守って帰り、准南の衰術に身を寄せた。衰術は彼を高く評価し、孫堅の私兵を返し与えた。しかし、孫策は数々の武勲を立てながらも彼に心を許さず重用しようとしない衰術に見切りをつけ、朱治・呂範の献策に従い伝国の御璽を担保に兵を借り受け、江東平定に乗り出した。進軍の途中、孫策の義兄弟の周瑜、字は公きんが軍を率いて合流した。後に孫呉政権の屋台骨を担う男である。

当時江東には劉縣・王朗・厳白虎らが割拠していたが、このうち長江の南岸地域を支配していたのは劉縣であった。劉謡は孫策襲来の報に牛渚に軍を送ったが、孫策に難無く打ち破られる。さらに進撃した孫策は、神亭で劉縣軍と対陣する。