五丈原の戦い|諸葛孔明が死んでも司馬いをだました

五丈原の戦い
長期戦のために孔明がとった大作戦とは?
234年/○魏(司馬い) VS●蜀(諸葛孔明)

劉備亡き後、その夢である漢王朝の復興による天下統一を実現させるべく、諸葛孔明は奮闘した。夷陵の戦いでの大敗で国力も衰えていたので、産業を復興させ、国家そのものの立て直しから手をつけなければならなかった。その一方で、南方の異民族たちの反乱の鎮圧にも出向いた。

そして、5年後の227年、諸葛孔明は、ようやく宿願である魏討伐を開始する。
これを孔明の「北伐」といい、第五次までおこなわれた。

敵陣に攻めていく場合の最大の問題は、いうまでもなく補給である。孔明が立てた戦略は漸進戦法であった。魏の領土を少しずつ制圧し、蜀の支配下に置き、後方を固めた上で、次に進むのである。次に進んだところで勝てば、また進めばいいし、負けてもすでに制圧したところに戻り、立て直せばいい。長期戦になることは覚悟の上での戦法であった。

諸葛孔明は出発にあたり、劉備の息子で二代目の皇帝となっていた劉禅に「出師の表」を上書した。これは悲壮感漂う内容のもので、これを聞いた将たちは涙し、一致団結して戦う決意を新たにしたという。

だが、北伐は4回とも失敗に終わった。やはり、補給が常に敗因のひとつとなっていた。第四次から3年たった234年、諸葛孔明はついに第五次北伐を決断した。
迎え撃つ魏軍の大将軍は司馬い。

両軍が対峙したのは、五丈原だった。ここは台地でひょうたんのような形をしていた。ひょうたんの首にあたる狭い部分が五丈しかないのでこの名がつけられていたわけだが、孔明が本陣を置いたのは、この部分だった。孔明が従える軍勢は、6万あまり。

一方の魏軍は、3倍近い16万から17万の兵がいた。台地の下には川が流れており、その川を背にして、司馬諮は砦を築いた。魏軍が攻めるには、台地を上っていかなければならず、上で待ち構えている蜀軍に狙われやすい。といって、蜀軍が攻め下り、両軍が激突すれば、兵力に圧倒的な差があるので、苦戦は必至である。どちらも、動けなくなった。

例によって、持久戦となったのである。となれば、ホームで戦う魏のほうが、アウェイで戦う蜀よりも有利である。

諸葛孔明も、これまでの敗戦でいやというほど補給については分かっていた。物資の輸送を楽にするためのさまざまな道具も開発してきたが、いずれも決定的な解決にはならなかった。そこで孔明が考えたのは、兵糧を自国から運んでくるのではなく、敵地で開墾し、食糧を「作る」ことだった。そのための屯田(土地を開墾して田にすること)が実行に移された。これが秘策だったのだ。

その一方で孔明は、何度も司馬いを挑発し、戦闘に持ち込もうとしていたが、待てば待つほど優位に立つ司馬いは挑発に乗らなかった。

対峙しているあいだ、両軍の間には使者のやりとりがなされていたが、あるとき、司馬いは蜀の使者に孔明の日常生活について質問した。すると使者は、主がいかによく働くかを得意げに説明した。

「朝早くに起き、眠るのは夜中。杖打ち20回以上の刑の裁決は自らおこない、処刑にも必ず立ち合います。食事は少ししかとりません」これを聞いて、司馬いは「そんな生活では身体がもたないのではないか」と見抜いた。事実、孔明の体力は限界にきていた。

4月に挙兵し、五丈原に陣を敷いてから4ヶ月たった8月、諸葛孔明は陣中で亡くなってしまうのである。54歳だった。いまでいう過労死だろう。

孔明は、自分の死後、どのように撤退するかを具体的に細かく指示してあった。そのなかには、自分の姿に似せた人形を作っておくように、というものもあった。

孔明の死を察知した魏の司馬いは、攻撃を命じた。ところが、死んだはずの孔明がいた。司馬いは慌てて兵を引いたが、それは実は人形だったのである。

孔明の死を察知し、攻撃を仕掛けてきた魏軍はこのように翻弄され、蜀軍は無事に撤退できたのである。五丈原の近くに住む人々は、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と語りあい、この言葉は今も有名だ(仲達とは司馬いの字)。


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