三国志の呉という国の地理的特徴

呉という国は、まず父親の孫堅がその基礎を築いた。元々は長江の河口に近い揚州呉郡で生まれ、県の役人をしていた孫堅が、黄巾の乱や涼州の反乱討伐で功績を上げて勢力を増し、荊州長沙郡の太守、烏程侯にまで成り上がったときから、反董卓連合軍に加わって戦ったあたりまでの頃のことだ。長沙太守に任じられたのは黄巾の乱からわずか二年後、孫堅三十一歳、反董卓連合軍でさらに名を挙げたのは三十五歳のときだ。

その頃、五つ年下の劉備はまだ流浪の旅のし始めで、一つ年上の曹操はといえば、世をすねて故郷に引きこもったりしたあげくにようやく行動を起こしたばかり。大勢力を築くまで劉備や曹操がその後も長く苦労したことを思うと、異例に順調な人生である。なぜ孫堅だけ、若くして素早く大勢力を築くことができたのだろう。
根拠地の違いが大きかった。

孫堅の戦場は大半が中原から北辺にあったが、兵を集めたり軍資金を調達するその根拠地は、生まれた長江下流域を中心とする江南の地、つまり現在の華北地方と華中とを分ける浦河(池水)から南の地域だった。すると、孫堅の戦い方とかつきあい方、もっといえば孫堅という人のありようとか背景にある文化というものが、北の中原生まれで長く中原で戦った劉備や曹操のそれとかなり違っていたはずだ。
中国はおもしろい国で、文化の共通性ということで見ると、東と西では比較的よく似ているのに、北と南とではまるで違っている。中国の文化が黄河と長江という二つの大河の流域文化として成立してきたためだ。北と南の違いは、その二つの流域文化の違いに由来する。

たとえば、長江系の文化では昔から米を主食にしていた。これは温暖で湿地が多い長江の流域では早くから水稲栽培が盛んになり、収穫も比較的安定していたからだ。しかし長江よりはるかに北で降雨量も少ない黄河系文化では、麦が主食になった。『三国志演義』には、「自ら定めた軍律に反して実りの時期にあった麦畑を踏んでしまった曹操が、自分への罰として髪を切る」というエピソードがある。『正史三国志』にはない話だが、中原では昔から麦が重要な穀物の一つだったから描かれたものだ。

中国の北と南、黄河系文化と長江系文化では、主食からしてすでに違っていた。孫堅は米を、劉備や曹操たちは麦を食べていたのである。食文化に始まる文化的な違いは、政治的経済的に力の弱いほうの文化に属す人々に劣等感も優越感もないまぜになった意識をもたらすものだ。そういう意識がおそらく、劉備の尊皇はもちろん曹操の覇道とも異なる、孫堅の野心の背景にあったと思っている。

また、「南船北馬」という言葉がある。「東奔西走」と対で忙しく各地を旅をするという意味になるが、元々は、中国では旅をするとき南は河が多いので船を、北は陸地が長く続くので馬を使うという意味だ。北では馬の育て方や使い方が、南では船の建造法や河での航海術が発展したのである。

戦争でも、北では輜重車というのを使って物資を移動したが、湿地が多くて地形的に輜重が使いにくい南では主に船を使った。兵站でもそれだけ違うのだから、孫堅は戦い方でも中原の人々とはかなり違っていたのではないか。ぼくは孫堅が「騎馬隊で揉みに揉む」という波状攻撃を得意にしたと描いたが、孫堅が中原を転戦したとき、孫堅を勝たせた江南文化由来のものが何かあったはずだと思っている。

しかし、南と北の違いの中で孫堅を大勢力にした決定的な要因は、江南が、劉備や曹操の他にも星の数ほど野心的な武将がひしめいていた中原に比べると、軍事的な空白地帯に等しかったということだ。当時江南の人口は、古くから交通の要地で長く統一王朝の都が置かれた華北(黄河中・下流域)より圧倒的に少なかった。揚州南部などの一部を除いて、都市の規模も小さく、広い地域に人が散在しているという状態だった。武将の勢力が集められる兵隊の数で決定する時代である。孫堅には同郷のライバルも、江南を狙って進出してくる異郷の侵略者も、劉備や曹操ほどにはいなかったのである。