張魯が教祖をしていた「五斗米道」は五斗の米を入信料として徴収


他人の商度、人の意の如きは少なし
(魏害・張魯伝)
他人の当て推量したことほど、いい加減なものはない
劉備が益州(蜀)入りをしたあと、その乗っ取り計画に内応するはずだった劉璋の参謀・張松が、後難を恐れた兄に密告されて処刑されてしまった。

乗っ取りの画策が発覚する危険や呉軍への援軍問題などで、劉璋との間が微妙に揺れ始めたころ、曹操軍を荊州北部に追い込んだ孫権と曹操の間では熾烈な攻防戦が展開されていた。

孫権は最前線である長江北岸に出城を築き自陣を固めていたが、そこに曹操が攻撃を孫権は最前線である長江北岸に出城を築き自陣を固めていたが、そこに曹操が攻撃を仕掛けたのである。しかし、勝敗を決することなく対時が続いた。

ある深夜、曹操軍が長江の中州に渡ってきたとき、孫権の水軍は彼らを包囲して数千人を溺死させ、三千人もの兵を捕虜にするという成果を上げる。曹操にとっては大きな痛手であった。このとき曹操は、自分より27歳も若い孫権の戦いぶりに驚嘆し、「孫権のような子供を持ちたいものだ」とまで言っている。

孫権は父、兄に劣らぬ英傑といわれる。それは彼ら親子を支える家臣たちが優秀で、その人間関係によるところが大きい。名参謀として、また無二の親友として二代目孫策を支えた周瑜は、孫策亡きあと孫権を守り立て、「赤壁の戦い」で曹操を破る。

だが、彼は途中36歳の若さで病没した。その後任となる魯粛もまた、負けず劣らずの才能の持ち主だ。魯粛の後任の呂蒙、その後任の陸遜も優秀な司令官となっている。もちろん、将官クラスにも多才な人材が揃っていたのである。

それはさておき、両軍は対時すること一か月あまり、膠着状態のまま春を迎える。と、孫権から曹操に手紙が届く。そこには「春の洪水期になる前に撤退したほうがいい」とあり、さらに「お前がいる限り、こっちはおちおちできない」という孫権の本音が吐か
れていた。これを読んだ曹操は思わず笑い、「孫権は正直者だ」と言い、すみやかに軍を撤退させたという。

そのあと曹操は、軍を漢中の張魯討伐に向けるのである。途中、涼州と武都を落とし、それから陽平山の砦を攻略するのだが、陥落できない。味方の損害も大きかった。これではとてもじゃないが、その奥にある陽平城までたどり着けそうにない……。このとき思わず曹操は、冒頭の言葉を眩いたのである。

というのも、曹操は途中、涼州の巡察官と武都の降伏兵から、「張魯を攻略するのは簡単。陽平城は南も北も、山からだいぶ離れていて、城側が守備しにくいところだから」と言うのを聞かされて、それを信じていたのだ。だが現地に来てみると、聞くと見るとでは大違いだったのである。

それにしても、人材収集に長けている曹操にしては、お粗末な油断をしたものである。
あるいは教団「五斗米道」のなんたるかが、わかっていなかったのかもしれない。