宗教の歴史と三国志の関係は深い

仏教を認めた曹操
漢末は戦乱の時代でもあったが、別の見方をすれば宗教の時代でもあった。体制が中から崩れ、カネと不正と力だけが支配する世の中となり、農民たちの多くが故郷を追われ、あてもな生きることを余儀なくされてた。そうした未来の展望もない弱者たちの大きな拠りどころになったのが、前にも述べた「太平道(=黄巾)」や「五斗米道」などの新興宗教だ。

「太平道」は張角が大賢良師と自称し「黄天」の神の使者として世に出たことに始まる。当初は、病人を治療したり、病気の原因は自身が犯した過去の悪行に原因があると諭し、懺悔をさせたり霊水を飲ませたりしていた。
やがて災害や飢饉が全土に広がり社会情勢が不安になると、救済を願う人々が激増し、華北から揚子江流域にかけての広い地域で数十万の信徒を集める教団組織となった。この教団の名称が「太平道」で、組織の中には軍隊もあった。やがて一八四年、「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」というスローガンを掲げて反乱の軍を起こし、漢末の乱世の時代の口火を切っている。

いま一つの「五斗米道」も、やはり農民たちに懺悔告白を促し、悔い改めを実践させることで未来への不安を和らげるという、ある意味では「太平道」にたいへんよく似た性格をもつ宗教だ。教祖は張魯という人物で入信の際に信徒に五斗の出させたから、こう呼ばれたという。ほぼ同時期に別々の場所で興った二つの教団のいちばんの違いは、「太平道」が広範囲に広がっていったのに対して、「五斗米道」は険しい山々に囲まれた漢中に拠点を置き、混乱の続く中原とは一線を画した環境の中に独立の宗教王国をつくろうとした点だ。この宗教王国は三十年近く続いたが、ニー五年に曹操によって滅ぼされる。
新興宗教や民衆の不安と誰もが無縁ではいられなかったこの時代の中で、人々と正面から向き合うことができた人物というのは、実は決して多くない。劉備、孫堅、孫策、孫権、諸葛亮には、こうした集団と真剣に対決した記録がない。これもまた曹操だけだ。

一九二年、青州黄巾軍という百万を超える大勢力と向き合い、反乱を降伏させた曹操は、そのときに恐らく宗教の本質的な部分を腹の底まで吸収せざるをえなかったのだと思う。信仰のために命を賭けて戦う男たちがいる、その男たちを命を賭けて支援する女性、老人、子供がいる。

国家があって人があると考えていた曹操は、国家よりも大切なものがあると考える人々がいることを自分は認めなければならないと悟った。人々が 必要とするものは何なのか。食べることである、生活することである、生きることを楽しむことである。さらに、しみじみと生きていてよかったと思わせるものが必要だとすれば、その中の一つに宗教があるではないかと。

基本的には宗教を認めない曹操が、「浮屠」だけは早くから認めていた。
浮屠とは「ブッダ」を漢音により当て字したもの、つまり仏教のことだ。
町に寺院を建てることを許し、そこに集うことを許した。太平道や五斗米道とは違い、浮屠には軍事力がなく、宗教国家を作るという構想も持たず、平和的に信徒を増やそうとしていたから認めたのかもしれない。この時代に寺院という基盤が作られたおかげで、仏教はその後も中国社会に根を下ろしつづけ、やがて朝鮮を通じて日本にも伝えられる。もし曹操が浮屠を認めずそのものを絶対的に否していたとしたら、結果的に仏教が日本に伝わることもなかったのだ。

なお太平道と五斗米道は、曹操によって教団は解散させられ布教活動は禁じられたが、信仰そのものは許され、やがて二つは一つに合わさり華北に広がって、いわゆる「仏教」となる。